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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    一 芸能・娯楽の発達
      敦賀・小浜町人の遊芸
写真115 花見(「神明神社社頭図」)

写真115 花見(「神明神社社頭図」)

 天和二年(一六八二)の「遠目鏡」には「芸者付」があり、当時の敦賀町人に関心の高かった遊芸の一端を知ることができる。記された人数を示すと、儒学者一、歌学者二、詩作者一、連歌師一、俳諧師二、能書一、碁一、将棋一、数寄者一、立花二、庭作り一、鞠二、謡二、笛二、鼓一、太鼓一、算者二、彫物細工二である。和歌や連歌・俳諧などの文芸、能や浄瑠璃を想起させる謡・笛・鼓・太鼓、草木に関する立花・庭作りとともに、蹴鞠や囲碁・将棋といった娯楽がみえている。
 小浜に関しては、浄瑠璃語りや三味線ひき・軍書読み・芝居役者・申楽役者、鳥獣の見世物、碁・将棋・茶・香の指南などが、他国より来て「華奢風流、無頼放蕩の媒」となり、素性も知れない者を「女婿」として居住させている風俗を、「今更に改め難し」と『稚狭考』の著者を嘆かせているように、明和四年頃には右のような芸能・娯楽が盛んだったようである。
 これより少し前に成立した『拾椎雑話』によれば、小浜では能が好まれていたようで、寛永十三年(一六三六)に八幡小路に市の塔を移した時も、人寄せのために能の興行をしている。小浜城内でも能が演じられ、時には町人の見物も許されている。寛文十年(一六七〇)三月十九日には六七〇人の町人が見物したとある。八幡宮には能舞台が設けてあり、放生会の時や諸勧進のために能や狂言が演じられた。藩主酒井忠勝は「国に倉座一組ありて能いたし候事、御自慢に思召」されたとある。また、今在家町の内藤弥兵衛の子は少年の頃から小鼓が上手で、後江戸に出て観世新九郎の門弟となり、鍋島家に召し抱えられたという記事もみられる。
 文芸では、組屋宗円の連歌の懐紙があることを記しており、慶長(一五九六〜一六一五)・寛永の頃から行われていたようである。享保十七年(一七三二)には連歌の宗匠が小浜に来たとある。しかし、寛文の頃からは連歌より俳諧が好まれるようになり、延宝(一六七三〜八一)の頃より「小浜俳道専也」といわれるようになった。また、同じ頃、和歌も「諸士に弘ま」ったようである(『拾椎雑話』)。
 興行関係では相撲の記事が多く、万治元年(一六五八)、享保十三年・十七年、寛保三年(一七四三)、宝暦三年(一七五三)に八幡宮で、万治元年・宝暦五年には神明宮で勧進相撲が行われている(『拾椎雑話』)。寛政四年に正誓寺の願いで行われた五日間の大相撲には、七尺三分(約二二〇センチメートル)の大男が登場し、札銭は一人二〇〇文、客の入りは初日六〇〇人、二日目一三〇〇人、三日目一六〇〇人、四日目一五〇〇人、五日目一〇〇〇人、合計六〇〇〇人にのぼった(「年々珍事書留」須田悦生家文書)。
 また、寛文元年閏八月には操り芝居が八幡宮の修復料を集めるため行われている。八幡宮では歌舞伎も行われたようで、延宝八年三月には敦賀の小谷惣兵衛一座が興行し、見物の入りが一日に平均千三、四百人であったという(『拾椎雑話』)。
 また、花を愛でることも盛んであり、寛文の頃、大津町の桝屋又兵衛が大坂の茶店で蘭をもらった話や、天和・貞享(一六八四〜八八)の頃から家中に牡丹がはやったこと、金屋の万徳寺に春になると花見に行くことが宝永(一七〇四〜一一)の頃より始まったことなどが記されている(『拾椎雑話』)。花見は神明宮も有名であったようで、後述する付近の三丁町の遊女たちと町人が花見をしている光景が「神明神社社頭図」に見られる。
 その他、延宝の頃には鶏合がはやり、茶の湯・揚弓・鞠なども時々流行したようである。囲碁や将棋の名人についても記されており、町人の関心が高かったことがわかる(『拾椎雑話』)。



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