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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    一 芸能・娯楽の発達
      福井城下の諸興行
写真114 芝居小屋(「福井城下眺望図」)

写真114 芝居小屋(「福井城下眺望図」)

 福井城下で医者をしていた橘宗賢は、明和六年(一七六九)から天明六年(一七八六)までの一八年間にわたる出来事を書き留めた「橘宗賢伝来年中日録」(福井県立図書館文書、以下「日録」)を残している。記事の内容は、藩主・藩士に関すること、騒動や処罰のこと、気象や天変地異など自然に関すること、火事・疫病など災害に関すること、貨幣の相場や米価など経済に関することなど多岐にわたっており、中でも諸興行に関する記事は、興行の場所や出し物、当たり外れなども書き留められており注目される。
 「日録」に書き留められた諸興行の回数は七三回である。もっとも年により差があり、明和八年は九回、安永九年(一七八〇)・天明五年は七回であるが、安永元年・同三年、四年は一回ずつしか書き留められていない。七三回のうち六四回は福井城下またはその近郊での興行であるが、残る九回は坂井郡三国で五回、足羽郡浅水二日市・吉田郡森田・南条郡府中・丹生郡石田で各一回行われたものである。城下・近郊での興行の場所は、立矢(立屋)町の芝居小屋が三七回で最も多く、次いで牧島観音堂六回、木町八幡五回、三橋長運寺・山町隆松寺各三回であり、勝見白髭社・石大仏・愛宕山・三橋本祐寺・米沢町裏・田原町裏・西山西巌寺・松本一乗寺が各一回であった。立矢を除くと寺社あるいは町の裏で行われた。
 興行の内容をみると、芝居が二二回、相撲が一三回、操り芝居が一二回で多く、その他に浄瑠璃八回、軽業芝居六回、能四回などがあった。興行の内容によって、場所が選ばれており、芝居・能は城下では立矢以外では興行されず、浄瑠璃は寺でしか行われていない。一方、相撲は立矢で六回、木町八幡で四回行われており、操り芝居は立矢では二回だけで、牧島観音堂が五回と神社境内での興行が多かった。表145には、回数の多かった三か年の諸興行の内容を示した。
 最も興行回数の多かった立矢は、北陸道を西に入った城下のはずれ足羽山北麓に位置する町であり、さらに西へ行った心月寺の門前に誓願寺町(誓願寺村ともいう)があった。誓願寺町には城下で唯一の遊郭があり、芸娼妓稼業の者とともに芝居役者が住んでいた。立矢の芝居のほとんどは、この誓願寺町に住む役者たちによって演じられた。誓願寺役者は、坂井郡砂子坂村から移転し藩の許可を得て料理業や芝居興行をしたと伝えられているが、移転の時期については、近世初期とか貞享の半知以後とか諸説があり定かではない(前『福井県史』第二冊第二編)。
 立矢での芝居は、三月中に始まり八月末か九月中に終わるのが通例であり、その間に六つほどの出し物を演じた。しかし、客足の悪い場合や、要人の死去による鳴物停止令、あるいは災害などで早く切り上げる場合もあった。明和七年には、「御倹約御厳重ノ故か不当リニ付閏六月十五日切」で芝居をやめ、同十八日から浅水二日町で芝居をしており、立矢では二十八日から誓願寺が雇った操り芝居を興行させた。しかし、これも「入薄キ故」八月二十日で仕舞いとし、再び九月二十日から十月十四日まで芝居をしている。同八年三月三日からの芝居は、御三卿の一人田安宗武の死去により六月十三日で仕舞いとなった。また、安永四年は芝居の後に勧進能を興行する予定であったが、侍屋敷五四軒、町家七一七軒を焼失した八月二十七日の火事のため取りやめとなっている。逆に、客の入りがよく、興行を延長する場合もあった。安永三年の芝居は、九月二十一日より「山下京之助役ニ入色々景事勤、甚ノ大入故十月五日迄ニ五日跡願」を出し延長している。また、天明元年の芝居は、閏五月二十九日で仕舞って、越中富山へ興行に行く予定であったが、富山・高岡で騒動が起こったので、行くのをやめて立矢で芝居を続けている。また、天明四年には興行期間中の四月十八日に座本春山次郎三が死去し三日間、二十二日には役者の滝川三郎右衛門が死去し一日芝居を休んでいる。いずれも疫病によるもので、天明飢饉の影響がここにも現れている。
 次に、諸興行の見物料をみると、興行回数の多かった芝居については記録がないが、安永七年の勧進相撲は見る場所により、一人当たり平座は五分、「舞台ノ高場」は二分であり、「前髪」の者は半額であった。しかし、中日の十五日・十六日両日の札料は八分と高かった。勧進能の場合は、相撲より高く通常は平座が札料一匁、平座の外の畳を敷いた場所は一畳に六人詰めで一人当たり二分五厘であった。ただし、当日の出し物によって変化し、平座が一匁五分あるいは二匁のこともあった。一方、明和六年の三橋長運寺で行われた浄瑠璃は、札料四分で外に履物取入代一銭がかかった。また、天明六年に大橋(九十九橋)舟場で行われた見世物は、鸚鵡など珍しい鳥類一二羽の見物料が一人一二文、「阿蘭陀伝」の絡操が一人一〇文であった。
 なお、寛政(一七八九〜一八〇一)年間の「福井城下眺望図」(福井市春嶽公記念文庫)には、浜町の河原に芝居小屋が描かれ、『越前国名蹟考』にも「此節(三月)より九月頃迄、浜町河岸戯場小屋にて誓願寺村の役者共日々芝居興行す、遊人群聚殊に繁華なり」とあるように、立矢の芝居小屋は天明七年から寛政の頃に浜町に移転したことがわかる。なお、右の眺望図には幟が五本立ち、付近には他の場所より人物が多く描かれており、まさに興行が行われている様子が描かれている。
 表145からもわかるように、福井城下では三月から十月頃まで、毎年何かの興行が行われていた。そして、それらの興行が成り立っていたということは、福井町人や近郊の村々からの見物人がいたということである。芝居や操り芝居・浄瑠璃・能・相撲などの見物が、庶民の娯楽として定着していたことを示していよう。

表145 「橘宗賢伝来年中日録」に記された諸興行

表145 「橘宗賢伝来年中日録」に記された諸興行



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