目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      寺子屋の役割
 丹生郡樫津村にあって江戸時代を通じて大庄屋を勤めた田中家には、貞享二年(一六八五)の書置が残されている。そこには「今川・実語教・童子教・長者教此四冊之趣能々致復相嗜可申」(田中甚助家文書)とある。鯖江藩の大庄屋を勤めた福岡家の寛政二年の「遺言書置之事」(福岡平左衛門家文書)には、倅を一〇年間他家へ預けて手習い読み物をさせよとある。下って嘉永二年(一八四九)大飯郡上下村の若者に与えた「掟書一札事」には、「農業透々ニハ夜分ニも学文算盤ニ稽古致常々心掛可申」(村松喜太夫家文書)とある。幕末頃の史料にも「手習・そろばん・碁・将棋・うたい等夫々の慰は相互ひに教しへ合い」(「若連中掟書」大虫神社文書 資5)とある。これらの一連の史料からは、時代とともに教育需要が大幅に増加していること、読み書きに求められる役割が大きく変化してきていることがうかがえる。村役を勤める家柄の子弟が役務の必要性にかられて学ぶ段階から、身分階層に関係なく一人前の人間として当然身につけるべき教養の段階に到達したということであろうか。
 十八世紀段階の寺子屋に求められたのは、村役人などを勤める農民上層に、その役務を含めての幅広い知識を提供することにあり、先述した事例に置き換えるならば岡野家や木村家が始めた頃の寺子屋がそれに対応していた。一方、十九世紀以降各地に建立された寺子屋は、『日本庶民教育史』や白屋村の寺子屋に対応し、それは日常生活を送るうえで必須となりつつあった読み書きの学力を、是が非でも身につけたいとする広範な庶民の要求にこたえるものであった。このように、算盤も含めて読み書きの能力を当然のこととして求める風潮が寺子屋の必要性を高めていった。



目次へ  前ページへ  次ページへ