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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      白屋村の寺子屋
写真113 寺子屋の図

写真113 寺子屋の図

 幕末期の若狭における例を三方郡白屋村の寺子屋でみることにする(中村徳治郎家文書)。村には大規模な寺子屋こそなかったが、四、五人から六、七人程度の子供たちを集めて開く小規模なものが四つほどあった。生徒は男子ばかりで、年令は一〇歳から一四歳くらい、階層的には中以上の家の子弟であった。授業は寺もしくは読み書きができ教育に理解のある人の家を借りて行われた。時期的には農業に差障りのない十一月から三月の初め頃まで、時間的には昼食時にいったん家に帰るが午前・午後ともに行った。入学時に準備するものとしては机・硯箱・文具入などで、謝礼として特別なものはなかった。正月に酒一升を持参するが、その時は生徒すべてに一飯が振る舞われた。子供が寺子屋に通っている年限中は五節句の重箱物を欠かさなかった。また先生が存命中は卒業したあとも正月の祝物を届けた。
 教科は読み書きが中心で、入学したての頃は「いろは四十八文字」を数回に分けて習字させ覚えさせた。続いて数字は一から「億」(当時は十万)の単位まで読み書きができるようにさせ、次いで村内の家名をすべて覚え書くことができるように指導した。安政三年の場合、浄泉寺・光照寺の二か寺を含め七十余軒の家名をあげている。それが済むと三方郡と上中郡の全村名を書き覚えさせ、これで一通りの学習を終えた。日用文や商売往来まで進む者はまれであった。次に読みとして、「実語教」「童子教」「古状揃」「商売往来」などがあげられているが、この村の寺子屋では読むことより書くことに重点が置かれていた。算術(加減乗除)は庄屋・組頭を勤めるような家でない限り必要はないとして学ばれなかった。



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