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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
    二 夢楽洞万司
      夢楽洞絵馬の普及
 夢楽洞の絵馬は、その多くが人々の移動にともない流通・普及したものと考えられる。勝山市五本寺の長尾神社には、天保十四年に奉納された二枚の夢楽洞絵馬が現存する。四人の女性が二人ずつに分かれ、同種の絵馬を奉納しているのである。裏面には、いずれとも「京都参り仕候」「同行四人組」と墨書されており、真宗門徒による京都本願寺参りの帰還記念と推定される。こうした女性が集団で奉納した夢楽洞絵馬が各所でみられるが、これらは尼講・かか講による寺社代参が盛んであったことを物語っているのであろう。このほかにも、元治元年(一八六四)に京都に動員された農兵が帰還に際して奉納したもの、また「伊勢参宮」の記念に奉納したものなどが確認される。さらに明治期に入ると、北海道へ移住した者、日清・日露戦争に出兵した者が郷里に戻って奉納したものが多く見られるようになる。
 これらに共通する点は、何らかの事情で村を離れた者が帰郷に当たって奉納していることである。寺社参詣や巡礼・物見遊山、出稼ぎ・奉公、戦争動員、他所への移住など、出立の理由は様々考えられるが、いずれにしても帰村の報告儀礼に絵馬を奉納することが流行したと思われるのである。その行為は、無事に帰還できたことの感謝の意を表すと同時に、「郷里へ錦を飾る」といった意味あいを持ち合わせていたと解釈される。夢楽洞絵馬の普及は、人々の移動のバロメーターとみることもでき、そうした意味で幕末から明治前期にかけてピークが形成されたのであろう。また、「絵馬」といえば、一般に神仏へ願いを伝える媒体として説明されることが多いが、夢楽洞絵馬の普及過程をみるかぎり、それは神仏に謝意を表す礼物として用いられることが多かったのである。
 夢楽洞絵馬の分布は、越前とくに現在の嶺北地方を中心に、加賀・能登・越中へと北に向かって分布域が広がっている。南は敦賀に至ると希薄になり、近江でわずかに確認されるが、若狭では皆無になる。この分布のあり方は、やはり人の移動ルートを反映していると考えられるのである。いずれも聞取り調査によるものであるが、石川県小松市新保では、かつて旅の行きに絵馬を注文し、帰りにかついで戻ったという伝承が残っている。また明治期に入ると、福井市天菅生では旅から戻った後に絵馬が運送されてきたといわれている。これを裏付けるように、勝山市志田の八幡神社には、明治二十三年(一八九〇)に奉納された絵馬で、裏面に「志田村行」と宛先の墨書されたものがある。すなわち、夢楽洞絵馬の分布が北に広がるのは、福井が上方へ向かう途中に位置し、旅の往復に合わせて注文・持帰りの便がよかったからである。
 また、夢楽洞の絵馬は、大小にかかわらず、薄手の杉板を用いて作られている。小さい物で縦・横ともに一五センチメートル、大きい物では縦一五〇、横二〇〇センチメートルを超えるものがあるが、重量はきわめて軽い。一、二人で充分に持ち運ぶことができる。絵馬の仕様にも、人手で携帯することを考慮したあとがみられるのである。ちなみに、絵馬が奉納された時期は、文政頃まで顕著にみられる傾向であるが、夏の七月から八月が多い。村部で農閑期を利用した旅が盛んであったことを意味するのだろうか。この点は、今後さらに関連資料を博捜し、検討を要する問題である。
 なお、もちろん絵馬の奉納は、人の移動だけがその契機であったわけではない。例えば石川県白峰村の八坂神社のように、文政五年本殿造営に際して一五枚の夢楽洞絵馬が同時に奉納されたケースもある。また、丹南地方によくみられるが、厄年払いに奉納されたと推定されるものも少なくない。



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