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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      寺子屋師匠の学歴
写真112 岡野家筆塚

写真112 岡野家筆塚

 丹生郡下大虫村の大虫神社の鳥居の前に明治十四年に建てられた筆塚がある。塚は摩耗が激しく名前ははっきり判読できないが四人の師匠の名が列記されている。『丹生郡誌』に大虫神社の神主岡野家は延享元年(一七四四)から明治五年まで寺子屋の師匠をしていたとの記述があり、「高祖九代実記」(大虫神社文書)にも、岡野吉教・吉登(俳号一窓)・吉伴(守節)・吉年(文窓)が寺子屋の師匠をしていたと記されており、筆塚の四人は吉登以下の三人と吉年の子吉孝のものと思われる。
 「実記」によれば、吉教の代から寺子屋が始められ、その子吉登は、寛保元年(一七四一)に生まれ、幼年期に府中の倉橋先生に筆跡を学び「師績」の名を得た。吉登は丹生郡天王村の松山良庵の門に入り、天文・儒学・医学を学んだ。のち家に帰り数百の門弟を教え、俳諧への造詣も深かった。吉登には男子がなく寛政六年(一七九四)に娘竹子に養子吉伴三五歳を迎えた(本章第二節第四項)。彼は丹生郡大樟浦の出身で一四歳で学問に志し、義父と同じく松山氏に入門した。ここで良庵・昌安から医学を中心に学んだ。その後京都に遊学し妙法院内の松下真山に梵・神の二学を学ぶこと八年、病気のため中断して郷里に帰った。その後、岡野家に養子に入ったのである。彼の妻であった竹子は天保十一年(一八四〇)に亡くなるが、追悼文の中で「手習ひ子に手本を教へ清書を直し女工の仕事も手伝ひ」(「妻の手向」)とあるように、時には夫に代わって師匠を勤めた。また長女鉄子もいったんは嫁いだが離婚して実家に戻り、父・兄が不在の折に子供たちを教えた。あくまでも臨時的なものであるにせよ、女性も寺子屋の師匠たりうる教育を身につけていたのである。
 吉年は寛政七年に生まれ、幼少より祖父および父から手跡・読書の手ほどきを受け、松山氏の門に入り寄宿生活を送りながら儒学と医学を六年間学んだ。次いで宮嶋白第・服部公實に易学と筮観相の秘授を受け、奥山知遠に天元算術を学び、さらに京都に出て天文・地理・暦術も学んだ。父の吉伴も書物の購入に励んだが彼も劣らずに収集に励んでいる。また「実記」には俳諧を通じて、あるいは学問を通じての他地域の人たちとの交流もみられる。安政五年(一八五八)吉年は天保二年生まれの二七歳の吉孝に家督を譲るが、吉孝の代、明治五年の学制にともない岡野家の寺子屋は閉じられた。



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