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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      寺子屋と塾の規定
 越前・若狭で明確に寺子屋の規定と思われる史料は丹生郡在田村の斉藤吉兵衛家のもののみである。年号の記載を欠いており断片であるが、以下に紹介する。

一、習子共朝五時外字但朝書者六過外字
一、無言之内不交余念随分励精力可致儀之事、
一、無言之内友達合外字噺懸候者静ニ座を立可相伺事、
一、線香立候間机竝能筆仕不速不遅心懸可相守事、
一、線香七本相究短日者五本相立可申事、
一、第一親兄師翁万端相背中間敷事、
一、番頭之指図可相守事、
一、 闘諍口論相撲枕引売買遣貰貸借勿論川飛水遊穴一約(銭)打走競礫投買喰(以下欠)
第一条は始業時間について述べたもので、一応は五ツ時(八時頃)と決まっているが、朝補修として書の練習を六ツ時から行っていることがしられる。二・三条には私語を慎み静粛な雰囲気のもとでの学習と精神の集中が説かれている。四条には環境と心構えの大切さが述べられている。五条の線香以下の箇条は就学時間についての規定であろうか、日の長い期間は線香七本、日が短くなる期間は五本が燃え尽きるまでとある。六条は一般的な心構えとして、師匠や年長者への敬意が説かれている。七条の「番頭」は学級委員長であろうか、その指図に従うべきことが説かれている。最後の箇条からは当時の子供たちの遊びの一端がうかがえる。わずか八か条にすぎないが、これらの箇条からでも寺子屋の授業の様子が漠然とながら浮かびあがってくる。
 次に手習の師匠が書いた手紙の一部を紹介したい。「手習も友立(達)と同シ様ニ遊居候而者同シ様ニ上り不申候、随分付合ハいたして其上ニ手前之心掛ニ而読かき致候が一生之徳ニ而候」(村松喜太夫家文書)。人と同じように遊んでいるようではとても手習の上達はおぼつかない、一通りの付合いはしたうえで、人より以上に練習するならば手もあがり将来役立つものとなる。手紙には続けて、いいかげんな気持ちでやっていると手紙一本まともに書けないで終わってしまい、それでは紙・筆を費やして手習いをしたことが無駄になってしまうとも述べられている。
 続いて大野郡中荒井村の田中塾の規定を紹介する。これは当地の斎藤久太郎が入塾に当たって塾主の田中弥次郎に差し出した入塾誓文である。条目の前段に誓文があり最後の条目の後には起請文が書かれている。
掟之条目
一、先師九首先生者勿論并尊師を師と敬可申事、
一、尊師者不及申先生之門人并尊師之門人之悪敷噂致間敷事、
一、算術儀門人格別師より無赦内々他江弘致間敷事、
一、他之算士と出合以私了簡疎忽致間敷事、
一、算におゐて何様之術出来仕候共任師意隠置間敷事、
一、此後算術怠有間敷事、
一、尊師并門人何様之品ニ而茂遺恨致間敷事、
一、 同并門人何様之災にても相互に力と成可申事、
田中塾では入門者ごとにこのような形式の誓文を提出させたようである。九首先生とは弥次郎が江戸で学んだ天元術の師である。天元術とは算術の一つで算木を使用して方程式の解を求める器具代数である。条目そのものは九首塾のものと同文であり、この学派共通の独自性の濃いもので、ある面では閉鎖的な規定である。なお同家には、同じ大野郡内の平沢領家村の高井晴葉や加賀大聖寺の仲間との問答の史料も残されている。



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