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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      越前に残る筆塚と碑
 筆塚は師匠から受けた学恩に報いそれを後世にまで伝えるため、筆子(寺子)たちが塚あるいは碑という形で残したものである。越前において現在確認できる筆塚は七二である。一般的には筆塚とされているがその名称はまちまちで、筆塚とあるものもあるが多くは某墓、誰々碑などとなっている。碑については判断しがたいものもあるが、寺子屋・私塾の師匠であることが明らかなものについては筆塚とした。建立年代は近代に入ってのものが大部分を占めている。これは、筆塚の多くが師匠の死後、門弟たちがある年齢に達した段階で建てることが多く、しかも寺子屋の全盛期が幕末期であったためである。最も簡素なものは「筆塚」と刻み、その他建立年、「門弟中」「門人建之」などが付加されている。なかには全員の門弟の名前が村名も含めて刻みこまれているものもあり、寺子の通学圏が知られ興味深い。
 筆塚の最も古いものは安永六年(一七七七)、最も新しいものは昭和八年(一九三三)である。表143は明治末年までのもので、その師匠名・設立年・所在地のみを掲げたが、掲載しなかったもののなかには摩耗が激しく判読が困難なもの、写真や資料としては確認できるが現在は他に移されて所在がわからないものも含まれている。このうち興味深いものを何点か紹介する。金津町の斎藤真乗の墓の裏には「長閑なる春の風さへいとふかな花よりもろく成身なるらむ」の辞世の歌が記され、合わせて詳細な履歴も記されている。同じく福井市の田畔佐次右衛門の塚にも「しら菊や霜おき足して咲残り」の句が刻まれている。岡野家については後述するが、大虫神社鳥居前の塚には同時に四人の師匠名が刻まれており形も円形で非常に珍しい。井上吉右衛門の筆塚は明治二十一年(一八八八)に建てられ算筆先生と刻まれている。彼は文政十二年(一八二九)に南条郡奥野々別所村に生まれ算術を教えていた。塚には村名入りで門人名さらには発起人名までがびっしりと刻みこまれ、未判読ながら履歴も記されている。裁縫の先生であった谷口たまの塚は縫塚と刻まれている。女性の筆塚としては唯一のもので、塚には門人名と世話人名がみえる。

表143 筆家および碑一覧

表143 筆家および碑一覧



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