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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
     二 兵学と武芸
      大野藩の武芸
写真110 大野藩武芸稽古日課表

写真110 大野藩武芸稽古日課表

 大野藩において、剣術では今枝流を土井利寛自らが学んでいる。さらに利貞は明和(一七六四〜七二)の頃石川官兵衛に指南を命じている(「信廟嘉善録」)。利忠の代になると天保十四年に小早川・三宅・石川・関口の剣術師範四家に各七両が配与された。さらに嘉永三年には内山介輔・岡田求馬・高井俊蔵が利忠の出府に扈従し神道無念流の斎藤弥九郎道場に入門している。同四年には藩に同流が導入され、介輔が無念流世話役となった。翌五年四月末、斎藤弥九郎の長男新太郎が津・萩・和歌山の藩士数人を従えて来野している。五月三日、新太郎の来野を聞き、勝山藩士八人、他に豊後臼杵藩士某等が来野し、互いに技術を競争した。利忠はこれを臨観している。秋には新太郎は長州に赴き、介輔がこれに随行している。翌六年、介輔が無念流剣技の師範役となった(『柳陰紀事』)。
 砲術では、天明(一七八一〜八九)の頃井戸仁太夫が、大坂の荻野文兵衛に入門し荻野流砲術を学ぶよう命じられている(「信廟嘉善録」)。天保十四年には井戸家に一四両が配与された。弘化二年(一八四五)小形元助を幕臣下曽根金三郎に入門させ、高島流砲術を学ばせている。同三年と嘉永元年の二度にわたって、新田野にて高島流野戦砲五〇発の聯放が演じられ、利忠がこれを臨観している。同六年には小形元助が砲術師範役となった。
 この他、鎗術や弓術等も含めて、とくに利忠の代には武芸を大いに奨励しているようである。弘化三年鎗剣弓砲の諸技を毎月一回各々日を定めて城内において開場し、これを「城稽古」と称した。利忠は必ずこれに出席した。当日宿直の者は代理をたて、自ら該場へ出て執業できるようにしたという。嘉永三年には諸流剣鎗の「競技会」を臨観している。また翌四年にそれまで禁じられていた他流の者同士の立合いや稽古が許可されている(『柳陰紀事』)。



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