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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
     二 兵学と武芸
      福井藩の軍学と武芸
 『続片聾記』によれば、寛政四年幕府より「諸家に而前々より相伝教習いたし来候武術武備等其次第書出候様」にとの達しがあり、福井藩内の武術各家の由緒が大目付桑原盛員に差し出されている。ここでは、それによって述べていきたい。
 まず軍学について、福井藩では他の若越諸藩と違って、武田流と義経流が採用されている。武田流では明石藤大夫吉勝が松平忠昌の代に初めて召し出されて、その子貞弘が武田流軍学の奥儀を究め明石家の家伝とした。さらにその子慶弘は宗矩の師範役を仰せ付けられ、その後代々明石家が師範役を勤めている。義経流では、源義経より流儀伝来九代目といわれる井原番右衛門頼文が、寛永二十年(一六四三)十二月に召し出され、もっぱら武具の御用を仰せ付けられている。さらに、承応二年(一六五三)義経流は藩の流儀とされ、番右衛門は軍師に仰せ付けられ、その後吉品の代まで仕えた。吉品は彼に対して尊敬の意を払っていたと見え、狩野元昭に命じて彼の肖像画を描かせ保管している。それ以来、代々井原家が藩の義経流軍学の師範役を勤めている。
 剣術では、柳生但馬守宗矩の門弟である出淵平兵衛盛次が、忠昌代の寛永九年江戸にて知行五〇〇石で召し出された。光通の代になって暇を願ったが引き止められ、その時二〇〇石加増されている。その後、代々藩の柳生新陰流師範役を勤めている。他に新影松田方幕屋流の横山家、富田流の坂上家、竹内流居合の高畑家、田宮流居合の鰐淵家がある。
 鎗術では、寛永八年宝蔵院流の中村市右衛門尚政が召し出され、鎗術指南を仰せ付けられている。以来中村家は代々師範役を勤めた。また五坪流の慶増安右衛門は万治元年(一六五八)に召し出されるが、貞享の半知で暇を出され、元禄元年(一六八八)再び召し出され、以来代々鎗術指南役を勤めている。他に、神道流の荒川家、無辺流の村田家がある。
 弓術では日置流印西派の飯島家・吉田家・伊藤家・河合家・落合家、同流竹林派の荻野家、同じく道雪派の岡田家がある。
 馬術では大坪流の国分家・関家・国沢家・町田家・松本家、神当流の勝村家・山田家・安西家・伊藤家・長谷川家、八条流の柄田家が代々師範役を勤めている。
 他に砲術で長谷川流の長谷川家、自由斎流の津田家、柔術で拍子流の久野家等が武芸師範役を勤めている。
 幕末の頃になると、日本近海に異国船が多く現れるようになり、海防の必要性が叫ばれるようになった。福井藩でも異国船との合戦を想定して砲術、とくに西洋砲術を重視するようになった。天保十一年西尾源太左衛門を旗本下曽根金三郎に入門させ、高島流砲術を学ばせている。嘉永三年(一八五〇)頃から領内要地に台場を造り、大砲を設置した。それにともない、西洋砲術書を翻訳し新たに藩独自の御家流砲術を定めた。以後、砲術修行者は従来の古流と御家流の両方を修行するよう仰せ付けられている(「家譜」)。
 安政四年(一八五七)四月明道館内に惣武芸稽古所が設置された。それまで藩士は各武芸師範の家で別々の指導をうけていた。その別々の各種武芸を一か所に集め総合の教授の規則を定めることにより、文武一致の実をあげようとしたのである。閏五月に各自宅稽古所が取り払われ、九月には稽古始めとなった。これ以後家中の一五歳以上の者は月に日を定めて武芸の稽古に努めるよう仰せ付けられた(「家譜」、本節第一項)。



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