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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
     二 兵学と武芸
      軍学
 軍学とは一般に用兵・戦術を研究する学問の総称である。兵学・兵法ともいうが、江戸時代には主に軍学の語が用いられたので、ここでは軍学で統一する。これは狭義には軍隊を指揮し、敵と対戦する時の技術に関する学問であるが、戦争においては物的・人的の諸般のことに精通する必要上、きわめて広義の内容を含む学問である。
 室町時代末期には源義経や楠木正成等の戦法戦術が重んじられ、「平家物語」や「義経記」「太平記」などが武士たちに愛読されるにいたり、義経流や楠流の軍学が興った。さらに江戸時代には戦国時代の名将武田信玄や上杉謙信などの戦いの様子が回顧され、諸流派が誕生した。主なものとして、小幡景憲の武田流(甲州流)、沢崎景実の謙信流(越後流)、山鹿素行の山鹿流などがあげられる。これらは、義経流・楠流とともに幕藩体制下の諸藩に広まり流行した。若越諸藩においては、謙信流を取り入れるところが多かったようである。ここでは、小浜藩の家臣で謙信流の軍学指南を家業としていた宮田氏に注目したい。
小浜藩の「由緒書」(酒井家文書)によると、初代宮田安左衛門景豊は元文四年(一七三九)襲封前の酒井忠用に初めて御目見し、月に三日(五の日)を定めて謙信流軍学を指南するようになった。同五年の襲封後もその講義は続けられたようである。同年冬、留守居役の萩山兵助より門弟悦友太夫を通じて、正式な召抱えの内意が伝えられた。景豊は大変ありがたいことだとしながらも、「先師懇願之趣意有之、越後より出府兵談所取建指南仕来候、的伝之稽古所譲り請罷在候事故、仕官仕候而者不任心底儀茂
 出来」ということで仕官の話は断った。さらに重ねての説得にも断り続けるが、その間も軍学の講義は行われており、寛保三年(一七四三)出入扶持二〇人扶持が与えられた。その後も悦友太夫等を通じて、仕官するよう説得が続けられ、ついに寛延二年(一七四九)他所での指南諸事はそれまでどおりという条件で仕官することになった。宛行五〇人扶持であった。こうして正式に藩の軍学指南役となった景豊は、家中の者に対しても毎朝講義をするようになった。宝暦七年(一七五七)襲封した忠與にも毎月数度召し出され、「軍学免許状極意之秘巻」を差し上げている。そして同十三年隠居し名も融温と改めたのである。
 融温は大野藩においても軍学の指南をしている。大野藩軍学指南役の中村志津摩も彼に師事している。ちなみに、謙信流の秘奥を究める者はその実名に「景」という字を冠らせることを常としていた。志津摩も許しを得て景通と名乗った。志津摩に指南をうけた藩主土井利貞も謙信流の軽卒の遣い方は残りなく習熟しており、融温に対しても尊敬の意を払っていた。「軍学の御師範、宮田融温軒の像も絵かゝせ玉ひ、彼人存在の内よりひめおかせ玉へ」るほどであった。藩の陣営の備立も融温とはかって選定している(「信廟嘉善録」)。
 二代安左衛門景福は宝暦十三年家督を相続し、家中の者たちに軍学の指南をした。寛政二年(一七九〇)年来の勤め出精につき新地二五〇石を下し置かれた。文化五年(一八〇八)に隠居している。
図24 宮田家系図

図24 宮田家系図
 三代源左衛門景盛は文化五年に知行二四〇石で家督を相続し、同七年三〇石の加増をうけている。天保四年(一八三三)には藩主忠順へも謙信流軍学を伝授している。同十一年八月、鯖江藩において鯖江城築城の計画があり、景盛に対してその縄張りの依頼があった。そこでしばらくの間鯖江に赴き、縄張り等の取調べをすることになった。藩からも「御城地之儀候得者入念大切ニ取調可申旨」仰せ付けられ、備前兼長一腰を拝領している。同年九月には縄張り等は終了した。同十二年鯖江藩の軍学師範役の喜多山豊次郎が景盛に入門し、軍学修行をしている(「寛政改御家人帳」間部家文書)。
写真109 鯖江城縄張図

写真109 鯖江城縄張図




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