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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      順造館
写真108 順造館正門

写真108 順造館正門

 小浜藩では初代藩主酒井忠勝以来、儒学を中心とする藩学振興に力を入れており、若越の諸藩の中では最も早く藩校を創設した。七代忠用の時、寛保三年(一七四三)崎門学派の京都望楠軒の講主であった小野鶴山を招いた。これより先の元文二年(一七三七)六代忠存は江戸で儒者稲庭正義(迂斎)を召し抱えている。正義は山崎闇斎の高弟佐藤直方の門弟で、延享二年(一七四五)小浜に居を移した。その後、藩士山口春水が京都の若林強斎の望楠軒塾に学び、鶴山を忠用に推薦したのである。
 明和七年(一七七〇)鶴山が死去し、そのあと望楠軒四代目の講主であった西依墨山が招聘された。そして、安永三年正月九代忠貫の時、墨山を教授として藩校順造館が開校した。古学派(仁斎学派)の家中教授役中村彦六は解職され、藩学はこれ以後崎門学に統一され、順造館は崎門学派の教授によって指導がなされた。墨山の後は、その子孝鐸、さらに孝鐸の子孝博や大沢鼎斎等によって指導された。
 開校間もない安永三年五月、藩の老中は「子共若キ者行儀」について、学問所での指導だけでは不十分なので、家庭における指導を徹底するよう指示しており(鈴木重威家文書 資9)、行儀作法の指導に力を入れたことがうかがえる。また、天明二年正月の「順造館惣壁書」によると、校内では礼儀を守ることが重視され、朱子学以外は異学として禁止されている。また、同年正月順造館教授の名で出された「規則」には、「子弟朋友の交、信義を以て主本となし、礼譲の重此館中第一義なり」と師弟間の礼儀を重んじている。
 順造館では、八歳から一五歳までを内舎生として素読を行い、一六歳以上を上舎生として歴史および経義の講習をさせた。教科書は四書五経のほか「小学」「近忠録」「靖献遺言」、日本や中国の歴史書などであった。開校時刻は辰の刻(午前八時頃)、閉校時刻は未の刻(午後二時頃)であり、会読などで残る場合にはそれ以後の在校も認めている(『小浜市史』通史編上巻)。
 学問所への出席状況はその後次第に悪くなったようで、天明六年には「近来一六講書之節出入至而少ク、如何之事ニ候」と申し渡し、学問所での講書への出席を促している。寛政二年、六年、八年にも同様に出席を促しており、その甲斐あって同九年には「一六之講日ニ者其後出入も相増尤之事ニ候」のようになった(「酒井家編年史料稿本」)。
 享和二年には藩校の建物が建て替えられた。この年、学問所の「御改格」がなされ、「神儒両道も兼備仕候御時躰」により神書が開講された。この開講をめぐって、「神道儒道教導之筋」が議論となっている(鈴木重威家文書)。さらにこの年、家中の子供たちのうちには一向に学問所に出席しないものがあり、また講書に出席した年長者たちも「学問義理之筋」を詮議することはなく、学問は「読書写文字斗之稽古場所之様」になり、実学の筋が立たなくなっていた。このため、家中のものに年限を決めて出席を義務付けるように教授方が求めている(鈴木重威家文書 資9)。
 江戸の藩邸では、上屋敷に信尚館、中屋敷に必観楼、下屋敷に講正館が相次いで開校し、山口春水の子風簷が預って教授となり、菅山・巽斎と続いて藩学を振興させた。



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