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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      明倫館
 大野藩では、七代藩主土井利忠による藩政の改革の中で文武両道の教育が推し進められた。天保十四年七月、学問所創設が仰せ出され、当分の間は会所において「学問手習等」を行うこととなった。八月七日、会所にて「学問所会初之式」がなされ、石川官左衛門が「孝経講釈」を行った。開設に当たって、「御家中之面々ハ勿論、其余誰成共望之者ハ日々集会、学問兵学共専ら相励」むよう命じ、町方へも「会所ニ而御講釈有之候間、町方望の者も世話役の方へ相届、無遠慮可被出旨」を申し渡している。学問所における学問手習の世話役に渡辺順八郎、軍学・学問の世話役に内山隆佐が命じられ、高井玄俊・中井玄仙も世話役とともに家中子弟の世話に当たった。同年八月、学問所では九の日に医術修行のため町医も参加して「医学会」を開くこととなった(土井家文書)。
 弘化元年四月大手門口に学館が新築され、明倫館と名付けられた。同二十一日には「釈外字之式」が行われた。明倫館の屋敷地の広さは、嘉永四年三月の改によると約四七一坪である。明倫館では、藩学として朱子学を奉じたが、他学派の説をもって議論することも認められており、教官はいずれも折衷学派や江戸昌平学派に学んだ人であった。内山七郎右衛門(良休)・内山隆佐・大熊潜・吉田拙蔵・横田権蔵(養浩)等の名があげられる。
 明倫館では惣司のもとに学監・教授師・助教師・句読師等により指導がなされた。学科には国学・漢学・蘭学(洋学)・医学・習字・習礼・軍用兵学等があった。八歳から就学し、学級を甲・乙・丙に分け、丙科は一三歳以下、乙科は一五歳以下、甲科はそれを終えたものであった。
 嘉永元年三月には明倫館の「御守法替」がなされ、高一〇〇石が館の運営費に宛てられ、内山隆佐にまかされた。また、この時「十三才以上執心之向」の入塾は勝手次第となった。このほか習字の一科が廃止となり、この年の冬初めて明倫館で「夜学」七〇日が内山介輔(大熊潜)等一七人によって行われた。武術については、同五年に城内の稽古場が明倫館内に移され、五月には「武芸稽古場」として教授師へ引き渡された。また、安政四年には演武場が普請された。館の運営費については、同五年四月「御収納之内四厘通」を文武の費用として家中から徴収することとなった(土井家文書)。
 藩主利忠が蘭学に関心を寄せたことにより、大野藩では蘭学(洋学)が導入され、盛んになった。安政元年十月には土田龍湾、翌二年五月には吉田拙蔵、十一月には林雲渓・中村岱佐が蘭学世話役に命じられており、同年十二月には、適塾の塾頭伊藤慎蔵を招聘するなどし蘭学振興の体制が整えられ、後に全国各地から来学する者が多かった。安政三年五月、会所を普請し蘭学所(蘭学館)として開き、伊藤慎蔵に教導を命じ、蘭学研究の拠点となった。翌四年九月頃から洋学館と呼ばれるようになった。同年十一月には医学館が開かれ、世話役に高井玄俊・土田龍湾が命じられた(土井家文書)。この頃の就学については、安政五年二月の諭達の中で「幼稚ノ子弟八歳ヨリ漢学、十一歳ヨリ蘭学各々業ニ就キ、十七八歳ニ至ルマテ専ラ該学ニ従事シ、日夜懈ナク勉励セシムヘシ」としている(『柳陰紀事』)。
 洋学の研究により洋書の翻訳刊行がなされ、安政元年七月の『海上砲術全書』一五冊、同四年の『颶風新話』二巻、『英吉利文典』などの訳書がある(本章第三節)。



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