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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      成器堂
写真107 旧成器堂講堂

写真107 旧成器堂講堂

 勝山藩では、天保十年藩医秦魯斎が藩主小笠原長貴に進言して、藩校創設の必要性を訴えたことに始まる。魯斎は同十二年に再び願い出、設立の資金の一部と書籍を献上した。これにより、藩は藩校設立にとりかかり、九月に城外追手筋に読書堂を開き、同十四年五月新校舎が建ったのを機にこれを成器堂と改称した。
 魯斎を学頭とし、教授には開設に携わった家老林毛川や丸山淑太郎・安田三溪・林雪蓬等が当たった。館では毎朝卯の刻(午前六時頃)から巳の刻(午前十時頃)までの素読、毎月六回の講釈・会読、毎月二回の詩文会のほか、剣術・槍術・習礼・医学講釈・医学会読などがなされた。就学の対象は、八歳から一五歳までとし、藩士の子弟のほか商人や富農の子弟の入学を許可し、幕末には寄宿生二〇人、通学生一〇〇人を数えた。開校後、講堂・演武寮・素読寮・寄宿寮などが建てられ、弘化四年に全学舎が完成した。この費用は、商人の寄付金等で賄われた(『勝山の歴史』)。
 成器堂の学風は、成器堂記の撰文が江戸の折衷学者亀田綾瀬であり、魯斎は漢学を折衷学派の京都の田中履堂に学んでいるから、折衷学派であったことがうかがわれる。文久三年魯斎の後、江戸で西洋医学を学んだ魯斎の子勤有が学頭となり、医学が積極的に取り入れられた。



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