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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      進徳館
 鯖江藩では、五代間部詮允の頃から学問に力が注がれた。天明八年(一七八八)京都の折衷学派の儒者芥川思堂(左民)が召し抱えられて以来、その子孫や門下の大郷氏によって藩士やその子弟の教育がなされてきた(『通史編3』第五章第三節)。寛政二年には、思堂は毎月六度家中を表御座敷に集めて「孟子」や「小学」などの講釈を行っている。この講釈は思堂の後、その子玉潭(轍)、須子等(大郷浩斎)、芥川帰山(舟之)、大郷学橋(巻蔵)等によって続けられた(間部家文書)。
 文化十一年五月、六代詮允が中小路に御稽古所を創立し、家中諸士とその嫡子や二男三男を集め、学問武芸に励ませた。学問については芥川玉潭と補佐役の武田万平の指導のもと、各種武芸についてはそれぞれ世話人が定められ、各師役の指導のもと稽古がなされた。
 七代詮勝の時、御稽古所では四書五経のほか「孝経」「小学」「近思録」などの書籍を朝五ツ時(午前八時頃)から九ツ時(午前十二時頃)まで教えた。午後は日を定めて講釈や輪講、詩文会が行われた(前『福井県史』第二冊第二編)。
写真106 「進徳」扁顧(間宮詮勝書)

写真106 「進徳」扁顧(間宮詮勝書)

 詮勝は天保十三年、御稽古所を進徳館と改称した。進徳館では江戸から帰国した帰山を中心に指導がなされ、さらに弘化三年(一八四六)には進徳館規則・学規などが改定され、藩校の発展が図られた。それによると、午前中は素読・復読・教示がなされた。午後は七の日に講釈、四と九の日に輪読、三と八の日に歴史会読、五と十の日に四書五経の復読教示、二の日に詩文会が実施された(『鯖江郷土誌』)。教師陣は師役・塾頭(嘉永三年から舎長)・斎長・世話人・素読掛があった。帰山は昌平坂学問所で学んでおり、館に江戸昌平学をもたらした。武芸については、各種の武芸世話人が命じられ、鎗術・剣術・弓術・居合術・小具足術・和儀術などの鍛練がなされた。
 御稽古所の開設にともない、これまで行われてきた各種武芸に対する藩主の「御覧」と重臣による「御吟味」は、御稽古所でなされるようになった。また、芥川門弟等の講釈や素読の進み具合をみるための藩主による「御直試」と、重臣による「御考試」も御稽古所でなされた。これらは進徳館となってからも続けられた(間部家文書)。
 江戸では、文化十年十月三田小山邸に御稽古所が設けられ、大郷信斎等が藩士に四書を講釈した。御稽古所には儒者信斎のほか、取締役、世話役が置かれた。講釈は四日・十四日・二十四日に行われ、十六日・二十八日には用部屋で、九日・十九日・二十九日には藩主の居間で進講がなされた。天保十二年六月には、丸の内辰の口邸内に御稽古所を移転して惜陰堂と改称した。信斎は教授に任じられ、以後惜陰堂では芥川帰山、大郷浩斎、大郷学橋と続いて指導に当たり、その後再び芥川帰山が指導した(『鯖江郷土誌』)。なお、信斎は芥川思堂門下で、大学頭林述斎にも学んでおり、述斎が設けた城南読書楼の教授にも就任している。このため惜陰堂においても江戸昌平学が導入された。
 進徳館と惜陰堂の教授に当たったのは、藩儒芥川思堂の子孫とその門下であり、両館では教授陣の交流がなされていた。また、ともに幕府の昌平坂学問所とのつながりが深い。



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