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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      平章館
 丸岡藩では、四代有馬允純・五代誉純と学問に熱心であり、江戸と丸岡において藩士の就学を奨励していた。寛政六年(一七九四)、幕府の奏者番であった誉純は上野沼田の古文辞学派の儒者関文太郎(赤城)を召し抱えて、江戸藩邸内で経学・詩文を教授させた。同九年にはその弟栄一郎(修齢)を江戸藩邸に招いた。さらに同十年赤城を丸岡に送り、城中で素読・講義・会読・詩文会などの科目をたて藩士一般を就学させている(「藤原有馬世譜」)。
 次いで文化元年、江戸で儒者宮本与八郎(応行)を召し抱えて丸岡に在住させ、その後城内三の丸に学舎を建て、平章館と称した。誉純は自ら扁額を書いて校内に掲げ、家中の子弟を集めて教学の場としたほか、庶民の入学も許可した。
 誉純はこれに先立つ享和三年(一八〇三)正月、自筆の書付をもって家臣に政治の要綱を告諭しており、その中で政道における学問の必要を力説した。この精神にしたがって藩校の設立がなされた。さらに諸士徒卒が修めるべき学問の範囲を規定した。例えば、給人以上は文学・兵学・弓馬・剣槍・大砲・習字・諸礼と規定し、このほか庶士・小算方ならびに徒士・足軽・道具の者などの別に分けて科目を定めており、その中には柔術や算術や読書などがある。藩士の子弟は、平章館で必ず学ぶこととし、卒以下は各自の希望に任せ私塾や寺子屋で学ばせた。
 宮本与八郎は古文辞学派の学者であり、平章館は古学の学風であった。しかし、天保年間に荒木一助が筑前の亀井昭陽に学び、亀井学(徂徠学を基調とする)を館に導入した。さらに嘉永年間には江戸の朝川善庵に学んだ有馬純信によって折衷学的朱子学に一変されるなどして廃藩にいたった。



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