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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      府中の立教館
 府中では、嘉永六年家老平野清兵衛・高木七左衛門が本多家の儒者である沖薊斎・竹内確斎や豪商松井耕雪等と図り、建設に着手した。安政三年十月松原通りに建物(建坪四八坪)が完成し、立教館と称し翌十一月に開校した。
 教授沖薊斎、助教竹内確斎を初めとして補講・句読師等の指導のもと、本多家の家臣の子弟は七歳になると入学し、二〇歳まで在学した。生徒は次第に増加し、三〇〇人にも達した。授業時間は辰の刻(午前八時頃)から申の刻(午後四時頃)までとされたが、教官は午前と午後で交替したので生徒も午前・午後に随時登校した。休日は月の一と六のつく日であった。立教館では経書科・歴史科・文章科・算術科・別科の五つの科が設けられた。経書科を初等、歴史科を中等、文書科を上等とし、算術科については四則応用を初等、利息算を中等、それ以上を上等として教授した。別科は藩治に関係する者のための科であった(『武生市史』概説篇)。
 沖薊斎は京学系朱子学派の竹内無因斎の次子であり、竹内確斎は無因斎の長子霞堂のあと家学を引き継いだが、後に江戸で安積艮斎に学んだ江戸昌平学派の朱子学者である。
 安政六年、沖薊斎・竹内確斎ともに亡くなった後、文久元年(一八六一)府中を訪れた伊予吉田の森余山を教授にして多くの人材を育成した。余山もまた佐藤一斎や安積艮斎に従学しており、江戸昌平学派の朱子学を奉じた。文久二年松平春嶽が「進脩書院」の扁額を記したことにより、この年から進脩黌と改称した。



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