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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      明道館の充実
 安政三年三月慶永帰国後、「永久之御規定」を定めることが命じられ、四月十四日には慶永が館を訪れている。六月には明道館の「御規則」が定められ、九月には橋本左内・矢島恕介(立軒)が幹事に任命され助教同様となり、館の態勢が整えられていった。十一月からは、一五歳以上四〇歳までの三〇〇石以上の家臣と子弟は一か月のうち一〇日間、朝四ツ時(午前十時頃)から夕七ツ時(午後四時頃)まで館に詰めて学ぶこととなった。左内は翌四年正月には明道館御用掛を命じられ学監同様となり、館の運営に当たった。
 安政四年正月、「外塾」が城下に四か所指定され、藩士の子弟を対象にした素読などの基礎教育がより充実された。四月に「文武一途之御趣意」により武芸稽古所が取建てになり、明道館に付属され、九月から稽古が始まり各種の武芸者が集められた。これは、西洋の兵術と武器の採用にともなう団体訓練等が重要視されるようになったためで、藩の軍制改革に沿ったものであった。家中一五歳以上の者は日数を定めて館に詰め文武に励むようになり、文武両道の総合教育が藩校内で実施されることとなった。例えば、三〇〇石以上の家臣と子弟は学文一〇日、武芸一五日の合わせて二五日間にわたって半日ずつ詰めることとなった。稽古所の入用は弟子中によって賄われていたが、次第に嵩んだため翌五年二月には家中惣懸かりとなった。
 安政四年四月には、洋書習学所(洋学所)が明道館内に開設され、兵学や自然科学の分野において進んだ洋学が取り入れられた。洋学所で教授に当たる人数は少なかったので、医学所で教導に当たっていた者が明道館に集められ、十月には洋学所は医学所の付属となった。洋書研究は海防軍備の必要上すでになされており、同三年正月には「字書之数」が乏しいので、幕府に「ウエラント字典活字板」を蔵板にすることを願い出て許されている(「家譜」)。また、同四年四月には明道館に算科が設けられることになった。閏五月家老が左内にあてた書付には、数学は「人世必用之一科」ととらえられており、財政を初めとして城砦の建設、兵器の建造、砲術・暦法・航海術などすべて算科によるものであるとその実用性が説かれている。算科の指導は、九月頃から始まった。十二月には「算科局規定」が改められ、算術修行を望む者は明道館へ入学することとなり、帯刀以上の者は勝手次第となり、それ以下の者は吟味のうえ指図を受けることとなった。また町人・百姓で入学したい者は願書を出すこととなった。加減乗除は三の日を除く奇数日の昼後、開方以上は三・八の日の昼前、測量はその昼後、試問は五日と二十日に授業がなされた。
 安政四年八月に左内が出府した後、幹事局御用取扱と武芸所御用掛を兼ねる村田巳三郎(氏寿)により明道館は運営された。十一月には大砲科が作られた。同五年四月には、熊本藩から横井小楠が明道館に招かれ新しい展開が図られた。十月の「文武館詰之儀ハ御免」にみられるように、四〇歳以下の藩士を強制的に館に詰めさせ、文武に励ませる体制は変化し、明道館の生徒の自主性や藩校としての主体性が尊重されるようになった。
 この後、明道館は矢島立軒や真斎門下の伴閑山・広部鳥道・荒川外字水・富田鴎波等によって指導がなされた。



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