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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      明道館の開設
 十六代福井藩主松平慶永は、外圧の高まるなか文武の充実を推し進め、嘉永二年三月、文武の「引立方」を命じた(「家譜」)。さらに同年七月には、「文武ハ形容ニ不拘実用を第一与心得候ハ勿論之事、且文武者御家中与一躰之事ニ候得ハ、我弟子他弟子之隔なく諸師心を合引立可被申」と諸師に申し聞かせ、稽古道具等の手当を支給した(同前)。また、四月に江戸で、五月に上方でそれぞれ「朱子学純粋之儒者」を探し求めている(「命令之部」松平文庫)。
 慶永は、嘉永五年には横井小楠から「学校問答書」を提出させるなどし、学問を振興させ人材を育成しようとした。そして、安政二年(一八五五)正月、城内三の丸の大谷半平屋敷を学問所とすることとなり、三月に完成した。学問所の費用には蔵米のうちから一五〇石が充てられた。学問所の開設に当たって、諸月番へ「学問之儀此侭ニ被成置候而者、自然武道之本旨ニ暗く技芸に属し候様可相成哉」と述べ、武道に対して学問の立ち遅れを心配し学問所設立に至った経緯を説明し、さらに「第一忠孝を旨とし、万事其筋を研究致し、武も本旨ニ基き文も末芸に流レス、言行着実ニ相励」むよう申し渡した(「家譜」)。以下、「明道館御用留抜書」(松平文庫)によって学問所の内容をみてみる。
写真105 明道館御用留抜書

写真105 明道館御用留抜書

 安政二年三月、高野半右衛門(真斎)を教授に、前田万吉・吉田悌蔵・徳山唯一を助教に任じた。真斎は春華の養嗣子で江戸昌平学を学び、正義堂では塾頭を務めた。四月には山県右近等一四人が学問所詰・定詰を命じられ、学監や教授・助教等とともに「科目始諸事」について学問所で会合を始めた。蒙養師に前田万吉・徳山唯一、訓導師に吉田悌蔵、講究師に山県右近等一四人、句読師に三人(いずれも講究師を兼ねる)を任じ、さらに幼儀師をおいた。素読教育については施設が不十分なので、家塾などでそれに当たっていた一一人へ「外塾之趣を以」てこれまでどおり指導を命じ、学問所の管轄下においた。諸規則を整え、六月二十五日明道館と称し開館した。
 入学資格は一五歳以上の帯刀身分以上が原則であったが、それ以下の者や最寄りの塾で素読をする一四歳以下の書生なども入学を許された。開館当初の入学者は士分九二四人、卒五〇一人、「外塾書生」三一四人、「父兄近隣ニ相手寄書生」六八人、合わせて一八〇七人に及んだ。開館後、講釈・表講・素読・幼儀・会読輪講が日時を決めてなされた。休日は一日・十五日・二十五日とされた。学科目は、安政二年十月から江戸へ学問修行に出ていた橋本左内が帰国し明道館に登用された同三年以後充実され、経書科・国史科・歴史諸子科・典令科・詠歌詩文科・兵書武技科・習書算術暦学科・医学科・蘭学科があった。
 このうち医学科は別に済世館(医学所)で教授された。医学所は以前からあり、文化二年三月、藩医からの願によって設けられた仮医学所に始まる。この創設に当たっては御医師・御目見医師・惣町医師が毎年出銀することとなり、町在医師の出席が認められていた。その後、同七年六月新たに本医学所の建物が完成し、薬園も作られた(「命令之部」松平文庫)。その後の洋学の振興にともない、安政三年正月にはこれまでの漢方医学に加えて、西洋医学を導入し、漢蘭兼学とすることとなった。同四年二月には御医師の子弟は八歳で明道館へ入学し、一三歳からは済世館で医学研究を修めるように命じられている。



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