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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    一 越前・若狭の藩校
      正義堂
 福井藩では十三代藩主松平治好の時、文化八年三月城下の商人内藤喜右衛門によって学問所建設の請願がなされた。喜右衛門は江戸昌平学派の藩儒高野春華に学び、人材養成の必要を唱え藩に献金した。藩はこれをうけて、文政二年桜の馬場に学塾を設け、七月に藩儒前田雲洞へ引き渡した。雲洞は福井藩に山崎闇斎の崎門学を導入した前田葉庵の子孫である。学塾の諸入用には「御趣意方預り造成講金千両」のうち一〇〇両分の利息が充てられた(「家譜」)。学塾の内容については不明である。学塾の活動はその後廃れ、学塾は近くに住む崎門学派の吉田東篁(悌蔵)に預け置かれていた。
 天保二年二月晦日、「学問心掛候面々」二〇人が新たに句読師に任じられ、桜の馬場学塾が貸し与えられた(「命令之部」松平文庫)。この二〇人の中から四人の塾頭が命じられ、学塾は三月十日に開講した。以下、「正義堂記録」(「越前史料」)から学塾についてみてみる。
 塾では、朝五ツ時(午前八時頃)から八ツ時(午後二時頃)まで、塾頭一人、句読師四人の合わせて五人が当番として出勤し、休日は一日・十五日・二十五日とされた。学塾掛には中根栄太郎(雪江)が任命され、塾へは教本として秘府から「四書五経大全」九一冊が貸された。塾では四書五経(「大学」「論語」「孟子」「易経」「礼記」など)の句読を授けることが行われ、三月末には夜会読も始まった。六月には当番の塾頭・句読師の五人を雑書一人、「四書」二人、「詩経」「易経」一人、「春秋」「礼記」一人に割り当て、受持ちの書科を決めた。
 しかし、天保二年十二月には塾頭から「只今ニ而ハ追々頽敗衰微相成候」との口上書が目付へ出された。その原因として「規矩不相立」をあげ、「規矩」の制定を願っている。その後、塾の興隆策が議論され、ようやく同四年五月に清田丹蔵(松堂)、七月に高野春華の両儒者に学塾が任され、「生徒引立」が仰せ付けられた。丹蔵は京都在住の京学系の朱子学者で、福井藩に最初に教学の振興を図った伊藤担庵の流れをくむ人物であった。学塾は六月から正義堂と呼ばれ、両儒者による「小学」や「論語」の会読、「大学」や「孟子」の質問、講談などがなされた。
 九月、学塾を任された丹蔵は正義堂へ引き移り、本格的な指導を始めた。十一月には、藩内で句読を受けている者が九七五人であり、このうち二五〇人が正義堂や句読師の自宅で句読を授けられており、残る七二五人は句読師以外の者から句読を受けており、すべてが藩校で教育を受けたわけではない。
 正義堂の入用銀は年間四八〇匁であったが、次第に嵩み差し支えるようになった。また、天保五年七月に塾頭たちは「今に規則も相立ち兼ね」ることを憂い、このままでは「重き被仰付通も相立申間敷」と学塾掛へ口上書を提出した。これに対し家老からは善後策を求められた。塾頭たちはこの中で、他藩の学校の様子について「場所柄も選ばれ講堂や諸寮が立てられており、学頭や講師はそろい、書籍も差し支えない。そのほか、雑事の世話に当たる者も置かれている」などと述べている。このことからみて、正義堂は施設や規則が依然として不十分であったことがうかがわれる。以上のようなこともあってか、同年十二月「御趣意」によって正義堂は閉鎖された。



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