目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      天保四年の小浜一揆
 文政の疋田騒動にもまして激しかったのが、天保四年の小浜の一揆である。天保四年は天候不順で冷害となり米価は次第に高騰し、九月の収穫時でも蔵米の古米が一俵五三匁に跳ね上がり、領内が飢饉の状況となり不穏な様相を呈していった。
 年の初めには、丹波米が入津して多少賑わいをみせていたが、秋に入ってからは諸国津留の影響を受けて入津もなくなり、米価が高騰していった。こうした状況に藩は、一人に米一斗を施して対応するが、さほど効果もなく、百姓はその日の飯米の獲得に奔走するといった状況のなかで、飢えにつけこんで米の買占めを行う商人が出るなどの風聞が出、領内が騒然としていった。
 実際、大津町の宇久屋長右衛門、質屋町四十物屋庄兵衛・木綿屋伊兵衛、川縁町尾野屋治兵衛の四人が合体して米を買い占めた。これを知った藩は、木綿屋に一五日間の戸閉、尾野屋に城下一里追放という処罰を行ったが、百姓は納得しなかった。そうしたなかで、百姓一揆が発生した。以下、この一揆の経過については、主に『小浜市史』通史編上巻に依拠しながらみていこう。
 まず一揆の標的になったのが、名田庄三重村の神主左近に近郷の米を買い集めさせ、高値で丹波筋へ売り払っていた鵜羽小路の米屋木綿屋伝介である。天保四年十一月十三日の夜八ツ時(午前二時頃)、三重村の寺へ一四、五人の百姓が寄り合い、神主が買い集めた米一〇〇〇石を町方へ出さないようにしようと相談し、売主を吟味したところ米は一〇〇〇石ではなく二〇〇〇石であることがわかった。これに怒った百姓は神主方へ押し寄せ厳しく問いただしたところ、木綿屋伝介と組んで買占めを行っていたことが判明した。そこで、寺の庭で藁を燃やし、鐘を衝いて「火事」と叫び近郷の百姓五、六百人を集め、米価の値下げと、米買占め商人に年貢を代納させることを求めて、茶屋に押し入り酒を取って小浜へ押し寄せた。
 まず、西からの入口の清水町の石野五郎兵衛を叩き起こして酒飯を奪い、今道町の酒屋滝三右衛門へ入り、それから永三小路の米屋木綿屋善次郎へ押し入った。百姓の望みを聞いた善次郎は詫びて書付を書いたので打毀さず、百姓は目指す鵜羽小路の木綿屋伝介宅へと向かった。時はすでに午前四時を過ぎていた。百姓たちは、伝介に対して、買い占めた米を一俵銀二五匁で売り払うよう詰め寄った。この騒ぎを聞いた町奉行藤野惣太郎・大塚九郎右衛門、代官村松又右衛門等は、同心三二人を引き連れて伝介宅で対峙し問答となった。しかし、怒りが収まらない百姓たちは、家財道具を壊し衣類を引き裂き、金銀銭米穀を道路にまき散らし、八石入りの酒桶を打ち砕き家を壊した。いよいよ勢いを増した一揆勢は、大津町の西島又兵衛へと向かうが、そこで藩側の役人と衝突した。役人たちは一揆勢に引き取るように命じるが、一揆側は米一俵を銀二五匁に引き下げることなどを要求するとともに、それを保障する墨付を得ようとした。
 百姓たちはいったん西島を引き上げ、町中の大家で飯汁をねだり、その夜は小浜で明かした。翌十四日には池河内・根来両村の百姓、小松原の漁師、さらには佐分利谷の百姓等も一揆に加わり、その数は二、三千人になったという。勢いづいた一揆勢は、夕方になって、まず二つ鳥居町の御用達米屋長兵衛を打毀し、隠していた米一〇〇俵をまき散らし、箪笥長持から衣類を選び出して着替えて、そのまま三丁町へ押しかけて乱暴を働いたあと、再び西島又兵衛へ向かった。その途中の市場の辻で米屋長兵衛のところへ向かう町奉行を初めとする藩兵と鉢合わせになり、一揆勢は人数に物を言わせて土橋まで役人たちを押し返し、西島を打毀した。次いで、隣家の宇久屋長右衛門も打毀した。藩兵を押し返した勢いに乗じた一揆勢は、十五日午前三時頃から四時にかけて瀬木町の井筒屋勘右衛門、川縁町尾野屋次兵衛、質屋町の木綿屋伊兵衛・四十物屋庄兵衛、大蔵小路の茶屋孫右衛門を次々と打毀していった。この間、下市場を固めていた役人は、槍をもって百姓と小競り合いをくりかえしていたが、一揆勢は、未明に大蔵小路の三島孫右衛門に押し入り焚き出しを頼むが叶わず、打毀してしまった。
 こうした一揆の動きと一揆勢が西津の古河へ向かうとの風聞に怯えた藩は、遂に鉄砲の使用を決め、土橋の門を固め、捕物から軍事へと態勢を強化し、翌十五日の朝には、小浜町の四口のうち清水町入口を関東組物頭三宅孫九郎・田村吉左衛門に、欠脇口を小荷駄奉行の縣逸右衛門・栗栖清右衛門に、長源寺口を畠中平太夫・藤原伝八に、それぞれ同心一六人を付けて固めさせた。一方、一揆勢は十四日の夜も小浜で過ごし、十五日には瀬木町の井筒屋清右衛門を打毀した。この時、町年寄組屋六郎左衛門が一揆勢の説得を試みたが成功せず、そこに出張った物頭荻山太七郎と一揆勢は対峙した。荻山は一揆勢に引き取るよう命じたが一揆側が一向に応じないため鉄砲を放ち百姓二九人を打ち倒した。これを機に一揆は四方八方へ散り散りとなり、その後藩の手の者によって町中が詮索され数十人の百姓が召し捕らえられ、計八三人が牢へ入れられた。こうして二日間暴れ回った一揆勢は引き取り、ようやく鎮まったのは十五日朝五ツ時頃であった。
 十五日夕方以降、一揆勢が再び欠脇へ迫ったとの報や各地での一揆蜂起の報が乱れ飛ぶなかで、十五日夕方から十九日まで町の各口の番所は厳重に固められた。



目次へ  前ページへ  次ページへ