目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      疋田騒動
 化政期以後における敦賀郡最大の騒動は疋田騒動と呼ばれる一揆である。これについては、『敦賀市史』通史編上巻に拠ってみてみよう。文政八年春、疋田村の孫太夫が駄口村との入会山の一部で薪を伐り、置いておいたところ、駄口村の百姓がこれを村の氏神境内に移動させた。孫太夫は駄口村庄屋に薪を返すよう申し入れたが、この山は本来駄口村の山であり、以後立入りを禁じるといわれ、両村が対立するようになった。
 疋田村は文政八年九月に代官所へ訴状を提出したが、翌年春になっても何の沙汰もなかった。薪の伐採を希望する者も多かったので、同村の真杉間兵衛がこれを示談にしたい旨を願い出て、訴状は取り下げられた。しかし、両村の交渉がまとまらない同十年三月四日に、疋田村の女たちが入会山で薪刈りをしていたところ、またまた駄口村の者によって薪を取り上げられてしまった。そこで、疋田村は再度訴状を提出した。
 ところが、文政十一年一月二十七日に藩主酒井忠進が死去したことにともなって、郡奉行や町奉行が更迭されたことが影響してか、春になっても何ら進展はみられなかった。そのため疋田村は、同年六月二十二日明六ツ(日の出頃)、村民総出で代官藤野伝左衛門屋敷に押しかけ、駄口村との入会山を従来どおり利用させてほしいと願い出た。しかし、代官が一向に取り合わなかったので、疋田村民は聞き届けてくれるよう騒ぎ立て、なかには役所に石礫を投げる者も現れた。早速五奉行が協議した結果、町奉行の塩野八郎右衛門が真杉間兵衛を通じ、「願通如何様成共致可遣候、先相慎可申」と申し入れたので、村民はしぶしぶ納得し村へ引き上げた。
 この疋田村の行為を百姓一揆とみなした小浜藩は、ひそかに小浜から捕手役人三〇人ばかりを派遣し、六月晦日に、村民全部に町奉行所への出頭を命じた。村民は町奉行の言葉を信じ、願いの筋が聞き入れられるものと思い役所に出向いた。村民が到着すると、役人は庄屋一人・年寄二人のほか一九人の者を白洲に入れ、先日の狼籍の罪状を読み聞かせ、召し捕ってしまった。玄関で結果を待っていた村民は、これを聞いて騒ぎ立て、また数人が捕えられ、村役人と合わせて二十数名が入牢となった。翌七月一日尋問を受けるため一三人が小浜へ送られた。
 彼等の減刑歎願は、疋田村の西徳寺黙声や郡中惣代・疋田七か村惣代・真正寺・宗昌寺・定広院など町在の百姓や僧侶によってなされたが、効果はなかったようである。なかでも黙声は小浜へ出て越訴に当たることをしたため捕縛されている。

表140 疋田騒動関係者の処罰

表140 疋田騒動関係者の処罰
 七月五日に、年寄一人が初めて帰村を許された後、十月までに彼を含めて一四人が許され帰村した。小浜から敦賀の牢に移された者、および帰村を許された者に、文政十一年十二月十三日に、町奉行から苛酷な処罰の申渡しが表140のように行われた。藩は、敦賀役所の役人に対しても、代官二人・町奉行一人を更迭するとともに、代官所元締の三人を免職とし暇を与えるという厳しい処罰を行った。疋田村は敦賀と近江を結ぶ街道の宿場で、小浜藩の本陣が置かれ、二〇〇匹の在郷馬借座が置かれるなど、藩にとっては重要な地であった。このことが、このような苛酷な処罰に関係があるのかもしれない。
 騒動の発端となった駄口村との入会山については、天保十三年十月十五日に、藩有林、留山、駄口村山、疋田・駄口両村入会山、疋田・駄口・追分三か村入会山という五種に分けた裁許が下された。疋田村にとっては不本意なものであったが、長かったこの事件も一応これで落着したのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ