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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      敦賀郡の村方騒動
 次に越前敦賀郡における村方騒動をいくつか示しておこう。寛政十年には、大比田浦で庄屋の諸勘定に対して村方百姓が疑心を抱き、争論が起こっている(中山正彌家文書)。また、文化五年六月には田尻村で検地帳の反別を改め、これ以前の検地帳を反故にするとともに、年貢諸役の納米金の過不足についても問題にしないという「村中一統和談定書之事」という一札を、庄屋・年寄各一人と高持と思われる百姓一九人が取り替わしている。おそらく、帳簿上の反別と実際とが合わないという問題が起こったためであろうと思われる。ところが、この問題は天保十三年にも再燃したようで、関係者四人の所持高の有坪と反別を記したあとに、文化五年の「定書」が再度写された記録が残っている(澤本弥太夫家文書)。
 天保十年正月の「原村之掟」の冒頭には「今般村方御法度之徒党連判之不法之筋ニ付」とあり、鞠山藩領原村で騒動があったようである。同村の村高五三七石余のうち三三石余は西福寺の寺領であった。騒動の詳細は不明であるが、「掟」の内容から推測すると、鞠山藩領分の田畑で検見が行われたような場合に、寺領分についても西福寺に断ることなしにその検見の結果で年貢を納入したり、西福寺の「家来」に対して無礼があったりしたことが原因で、同寺と原村百姓とがもめたようである。木崎・櫛川両村の村役などが仲裁に入り、内済して「掟」が作られたのである(西福寺文書)。



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