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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      本村と枝村の騒動
 種々の面で本村に従属を余儀なくされていた枝村は、本村からの分離独立を要求して争論を起こすことがあった。典型的な事例が、七か村からなっていた三方郡気山村である。同村では、すでに天明三年正月の惣寄合で、村内の市中村の者が、前年暮の勘定がおかしいといって、帳面をみせるよう要求している。また、寛政十二年閏四月には庄屋の交替要求が長百姓から出され、文政七年には、勘定を自分の村でやりたいという要求が出されている。しかし、この要求は認められなかったようで、安政四年(一八五七)にも庄屋の帳面の作り方が従来と違うことで問題が起こっている(熊谷平兵衛家文書)。
図23 世久見浦と食見浦(5万分の1地形図、西津図幅)

図23 世久見浦と食見浦(5万分の1地形図、西津図幅)

 三方郡世久見浦枝村の食見浦は、文化十年に分村を要求している(第二章第四節)。その理由・要求には次のようなものがあった。(1)世久見浦は禅宗良心寺の檀家であるのに対して、食見は一向宗立徳寺の檀家であり、出村ではない。(2)近年(文化三年)、食見浦に庄屋が置かれたが、庄屋としての役目は一日も勤めていない。(3)食見浦は、海成山手米として米一石七斗三升八合ずつ納めており、出舟役・引舟人足等も勤めて来ているのに、船を所持していない。海辺の村であり、とくに本村と隔たっているので差支えが多く、船を拵えたいと本村へ掛け合っても承知してくれない。(4)食見浦は、年内に年貢を皆済しているのに、六月勘定入用を掛けられ難渋しているので、二季取立も両浦別々にしたい。これに対して、世久見浦はそれぞれに反論している。(1)食見は他所者が来住したものであり、宗旨が違うのも当然である。また、食見全員が一向宗ではない。寛永(一六二四〜四四)年中の書物にも、六〇年前食見という在所はないと書かれている。その証拠には、食見塩師仲間へ山林一三か所、村中へ九か所を外字している。(2)食見の庄屋は名目だけではなく、取立てを初め、面割・宗旨改にいたるまで本村庄屋同様に勤めている。(3)年々海成山手米を納入しているというが、これは山手ばかりで海成は含まれていない。出舟役・引舟人足等は古来から高割であり、食見へは三分の一しか掛けていない。舟役は高割で掛けているが、この舟役は小浜出舟役に限ったものである。本村は、それ以外の海成・舟役をも納入しているので、舟を所持している。また、食見で舟が入用の時は、本村が不都合な時でも優先的に貸すよう村中へいってあるので、不都合があるとは思えない。(4)六月勘定の入用銀は、本村のうち未進米がない者にも掛けており、当村に限ったことではない。また、本村は先年より未進があるけれども、食見は年々皆済しており、未進割は掛けていない。また、本村の困窮者で食見の者から内借している者もあり、食見が難渋しているというのは偽りである(渡辺市左衛門家文書)。
 二例とも結果は不明であるが、近代になっても分村は認められなかった。



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