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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      若狭の村方騒動
 遠敷郡名田庄の下村では、史料でわかる範囲でも、宝暦四年(一七五四)、文化元年(一八〇四)二月、同四年正月、文政四年(一八二一)二月、同五年六月、天保八年(一八三七)二月、同十一年十二月と引き続いて村内で争論が起こっている。この中には高割・庄屋罷免・庄屋算用など、村方騒動の原因となるものがほぼ含まれている。そこで、まず同村の事例を時期を追ってみてみよう。
 下村は「天保郷帳」の村高が三八〇石余、文化四年の家数は六六軒の村である。天和元年(一六八一)に古い株を改め二四人を公事人(面百姓)とし、残り四〇人を脇百姓(小百姓)とし、諸掛り物や村入用はそれぞれが半分ずつを負担してきた。宝暦四年に小百姓から高割の要求が出され、面百姓も同意し下中郡代官に願書を提出した。宝鏡寺や組庄屋の仲裁で、中間増給銀・草銀・夫米の半分は高割にし、瓦木代の半分も高割、ただし五割五分は面百姓が負担し、残る四割五分は小百姓が負担する、その他は古法のとおりそれぞれが半分ずつ負担することで、面百姓もしぶしぶ承知した。
 文化元年正月の初寄合の時には、「難義百姓中」から村入用の節約等を庄屋に対して要求するとともに、草銀・中間割はこれまでのとおりでいいが、その他の諸入用は高に七割、門(家)に二割、残る一割は公事人に掛けるように改めてほしいという要求が出された。しかし、これを庄屋が聞き入れなかったので、難儀百姓中は庄屋の罷免を村役人に対して要求したのである。だが、これは認められなかったようである。
 文化四年正月には、享和三年(一八〇三)・文化元年の起返扶持の百姓への渡し方、御用銀・鷹狩入用の割方について、算用違い・不正があるのではないかとして、大勢の者が庄屋方へ行き、帳面を見せるように迫るという騒ぎが起こった。
 次いで、文政四年二月には、村中から庄屋に対して、諸入用を高へ七割、家へ三割の割合で掛けてほしい、外高も本高同様に扱ってほしいという要求が出された。これに対して庄屋方は、外高は本高より条件の悪い土地が多いので、同様に扱ってもらっては迷惑である、諸入用割を高割にするなら惣山も高割にしてほしい、面百姓しか所有していない牛馬を小百姓の田畑には使わせない、また他村から連れてくることも禁止してほしいなどと名田庄上組・下組の庄屋中へ願書を提出している。同五年六月には庄屋中から代官宛に下村の古来からの仕来り等を認めた願書を提出している。この時に高割が認められたのかどうかは不明であるが、この後史料の上では諸入用の高割を要求する願書はみられなくなる。
写真104 村法定メ書

写真104 村法定メ書

 天保期に主として問題とされたのは、庄屋の算用違いや諸帳面の扱いである。天保八年二月には「村法定書之事」が定められ、諸帳面は一〇年間は保管しておく、一〇年以内の算用違いは利息を加えて清算する、それ以前の算用違いは問題にしない、拝借銀米に関する帳面は返済するまで保管するなどが取り極められた。しかし、同十一年十二月には、先々代の庄屋から、立て替えている分を返済してほしいという要求が村方に対して出されている。これは、先々代の庄屋の跡を継いだ庄屋が急病になり、次の庄屋にそのことを申し送ってなかったために起こったことであるが、その結果は不明である(森口徳左衛門家文書)。



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