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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    三 天保期以降の一揆・打毀しと民衆運動
      村替えと江戸駕篭訴
 安政期には幕府領の支配方法や鯖江藩領の村替えに反対する運動が起こった。前者の例では、安政四年、丹生郡下石田村等六か村と南条郡二か村が夫米・高掛物などについて、幕府元老中の松平忠優に駕篭訴を決行したのがあげられる。これは天保十四年の反別調査で不毛とされた分への手当が放置されてきたことが原因であった。村方は「品能百姓共を御偽り」と役人を批判するとともに、村役人が小前に押されて本保陣屋へ訴訟し、その間に丹生郡平井村庄屋など二人が江戸へ向かい、駕篭訴を行ったのであった(下司区有文書)。
 後者は安政六年三月、幕府が鯖江藩領一万石を幕府領と替地するとしたことから始まった。驚いたのは関係の村々である。同年五月、鯖江藩領の三五か村は今立郡春山・西袋・小野谷、大野郡保田の村々から各一人、計四人を「小前村役人」惣代として江戸へ送り、大老井伊直弼や老中に駕篭訴を決行した。村替えになれば年貢の増加などどんな悲惨な結果があるか知れないと「悲嘆之余り」であった(『間部家文書』)。
 どうしたことか、この替地案は中止となったが、やがて万延元年(一八六〇)十二月、越前内幕府領丹生郡・今立郡・大野郡内一三か村六八八二石余を鯖江藩領とすることが明らかになった。この事態に今度は幕府領の一三か村が結束し、鯖江藩の年貢や産物趣法、藩札などは百姓に過大の負担となるといって騒ぎ始めた。ただしこの運動が本格化したのは文久元年(一八六一)に入ってからのことである。同年正月上旬、村別の嘆願書を持った代表が江戸へ派遣され、村替え撤回を求めて幕府老中へ駕篭訴が行われた。だが、勘定奉行所を通じ支配役所である高山郡代所へ訴訟するよう指示されただけであった。そこで四月、運動を続行するため今立郡新堂・上真柄・下真柄、丹生郡川去・気比庄、大野郡杉俣・新保・本郷、計八か村の代表が「願一件惣代」あるいは「村々小前村役人惣代」として規定書を結び、江戸や高山での嘆願出頭者への諸経費を村ごと高割りで負担することを申し合わせた(本保御免状保存講文書)。これをもとに五月、一三か村の各村方三役が連署した頼み証文を作成し、出府惣代に願いが実現するまで運動するよう申し送った。
 こうして嘆願は本保、高山、江戸と、訴願や非合法な直訴・越訴・駕篭訴等あらゆる方法で繰り返された。しかし、その都度適当な理由をつけて拒絶され、要求が認められることはなかった。なお、成功の可能性が薄いことを見越し、福井藩預所にできないかと福井藩主への直訴も検討したようである(長谷川金左衛門家文書)。
 文久二年十一月、鯖江藩が一万石減知となり、結果的に幕府領内の村替えは中止され、この件は終わりを告げた。けれどもこの運動は二つの点で注目される。まず、遠く離れた村々から代表が集まって協議し、訴願決行者を選んで高山や江戸へ送る方法が当初から取られたことである。直接幕府の責任者に訴えたところに、従来の百姓一揆とは異なる運動の高まりをみることができる。
 二つ目は訴状の中の村々の代表の肩書が「村役人惣代」の外に「小前惣代」という文言がほとんどの場合に入っていたことである。村役人のみならず「小前」の要求として運動を展開しており、小前層が政治的にも一定の自覚を持つ状況になっていることを物語る。このようにして幕末期には、それまでの百姓一揆・打毀しとは異なる運動が展開されるようになった。それは村役人が小前層に突き上げられつつ、他藩や幕府の政策にもかかわる民衆の運動となっていたのであった。



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