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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    三 天保期以降の一揆・打毀しと民衆運動
      福井藩経済政策への不満
 幕末期の民衆の動きとして注目されるのは、越前の百姓たちが経済的な問題解決のために、江戸への駕篭訴などをたびたび決行し、おのずと藩政や幕政とかかわる政治的な運動にまでなっていたことである。福井藩の津留政策と藩札不安定にからむ幕府領などからの改善要求はその一つであった。
 福井藩は飢饉が深刻となっていた天保七年七月、三国における穀物・諸産物の津留を実行し、他領の諸産品も同様な扱いとした。しかもこの頃、藩の資金不足から藩札が下落して正金との交換が困難となったため、各藩から猛烈な反発が起こった。十二月、丸岡藩は三国湊に接する自領内滝谷からの大坂廻米を福井藩から差し止められ、福井藩と対立した。翌年、幕府領の村々は、菜種等諸産物の津出ができず年貢金に差し支えると本保代官所へ訴えた。代官はこれを幕府へ届け出、十一年正月十五日、幕府は藩札問題を含め強い指導を行った。だが福井藩は方針を変えなかった(「家譜」)。
 その年の八月、幕府領百姓が大勢福井札所へ押しかけ両替を要求する事態が起こった。同時に本保支配下丹生・南条・今立・大野の四郡、および白山麓の村々代表として丹生郡下石田村庄屋与助と今立郡上真柄村長百姓金右衛門の二人が江戸へ向かい、幕府有力者へ駕篭訴を決行しようとした。福井藩の両替相場を平常に戻すよう求め、このまま放置すれば「変事」が起きる可能性があると訴状に認めていた。先に高山陣屋へ訴訟し、回答がなかったための行動という(山本喜平家文書 資5)。幕府も事態を重視し、翌年正月五日「本保初御領主方江茂御和融」を説得した。その結果、福井藩もこれに従って改革を進め、弘化元年(一八四四)九月に至って藩札問題は一応収まった(「家譜」)。ただし完全には安定せず、嘉永三年(一八五〇)に再燃、また幕府領郡中村々組惣代が解決を求め代官所へ訴願を開始した。安政二年(一八五五)には津留と口銭についても福井藩へ交渉するよう四郡惣代一一人と割元が願書を提出している(山本喜平家文書 資5)。



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