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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    三 天保期以降の一揆・打毀しと民衆運動
      丸岡藩張訴状
 天保八年二月一日、丸岡藩は停止していた郷会所を再開することとし、坂井郡野中山王村の鰐淵三九郎と一本田村山田孫三郎の両人、他に一六人を郷方惣代に任命した。そして、ただちに惣代に対し村方年貢の未納分一五〇〇両の取立て法を確認させ、さらに四月十七日には先納路用金七〇〇両を引き受けるよう命じた。
 先納金に驚いた惣代方はただちにこれを各村庄屋に相談したが、彼等は通常の年貢さえ上納できない折、不可能であると拒否した。同二十四日、郷方惣代から代官へ訴状が提出された。七〇〇両のうち藩札で二〇〇両のみ請け合うが、残り五〇〇両は免除してほしいという内容である。翌日、「丸岡領分郷中百姓共」の名前で訴状が張り出された。場所は不明だが、郷方惣代別格の鰐淵と山田の両名をともに「鬼」とあだ名し、鰐淵は以前にも多額の負債を招いた張本人であり、今度また彼等が郷会所を動かし貸付金の取立てや「無道無実」の指導を行うなどもっての外で、ただちに罷免して欲しいとの激しい非難文である。奥書には、この訴状をはぎ取ったときは幕府巡見使に歎訴すると書かれていた(高倉三郎四郎家文書)。
 その後の動きなどこの一件の詳細がわからないが、各村は飢饉を理由に鰐淵や山田など特権的豪農と対立し、藩当局との対立もより厳しくなっていたことがうかがえる。天保九年には幕府巡見使の回村が予定されており、これを利用した訴状となっている点も、藩にとって無視できないことであったろう。
 全国的には、これ以降ますます百姓一揆が高揚し、慶応二年(一八六六)には頂点に達する。しかし、越前ではそのような発展はみられなかった。確認できるのは米価高に起因する二件の打毀しだけである。一つは天保十年七月二十九日に三国町で商家三軒を(『三国町史』)、もう一つは慶応二年西尾藩領丹生郡田中村と幸若領西田中村で米屋や酒屋などを打毀したものである(第六章第四節)。前者は天保期までの都市の米騒動と似た性格をもち、後者は西尾藩領で初めて起こったものであった。



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