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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    三 天保期以降の一揆・打毀しと民衆運動
      天保飢饉と米騒動
 全国的に飢饉が本格的になったのは天保七年のことである。この年の正月、勝山藩は他領へ販売する諸産品には役銭を賦課すると町方へ通達した。各町はただちに行動を起こし、長淵町が五八人、沢町は惣代として組頭一八人、後町三四人、郡町五〇人など、それぞれ連署して藩へ撤回を求めた(勝山市教育委員会保管文書)。町役人代表による訴願でなく、町内ごとに独自の意志確認を行い、願書を提出しているところに従来とは異なる町方の高まった主張があった。
 やがて米の端境期に入った七月十六日夜四ツ半時、沢町義宣寺の鐘が突かれ、折しも本町札の辻で盆踊りに興じていた人々が近くの有力商人松橋・室屋・米屋の前に寄り集まり、石打ちなどを始めた。役人が出動しまもなく鎮められたが、十九日昼にも九頭竜川河原へ集まるようにとの出所不明の触が町内を回った。騒動の中心となり、あるいは吟味を受けたのは髪結い職人などいずれも本町筋以外の町方の者であった(松屋文書)。下層町人が煽動して米騒動を引き起こしたのである。
 この頃、越前各地とも飢饉が深刻化し、騒然とした雰囲気が広がっていた。七月二十六日、小浜藩領今立郡別司村で二軒を打毀す騒動があり、さらに粟田部・五箇辺へ押し寄せるとの風評で一帯は騒ぎ立った(岩本区有文書)。同じ頃同郡水間谷・服部谷や同郡寺中村、それに府中町など各地で張紙騒ぎがあり、幕府領南条郡瀬戸村にも打毀しの風聞があった。同郡燧村の張紙には、瀬戸村の庄屋が各地の黐屋に黐木を売却したため、これを怒った竜神が雨を降らせたと書かれてあったといい、庄屋宅を焼き払えとの廻文が宅良谷から府中近くまで回った。これを知った本保役人はただちに山小屋や諸道具を焼き払わせたという(「天保飢饉録」)。九月四日には丹生郡上糸生村の道場へ「ミのむし(蓑虫)といふかたち(形)」で五〇〇人ほどが現れ(斎藤六兵衛家文書)、同日、福井藩領南条郡河野浦で庄屋役を勤めていた酒屋が襲われたと伝える(『福井県南条郡誌』)。

表139 天保7年(1836)から8年の民衆の動き

表139 天保7年(1836)から8年の民衆の動き

 天保七年冬から翌八年春にかけ飢饉は頂点に達し、巷に飢人・病人・餓死者があふれ、各地に物乞いの集団が押し歩く毎日となった。「酉日記」(杉若与左衛門家文書)「天保飢饉録」から関係記事を拾った限りでも表139のとおりである。
 数十人、時には一〇〇人を超える集団が各地を回って酒食を押乞いし、米屋や富裕者を打毀す張紙が多数みられるなど、まさに社会全体が騒然たる状況にあったといえる。ただし、押乞いは分散的で、張紙も組織的・計画的なものはみられなかった。
 各領主は治安の確保に神経を尖らせた。二月に起こった大坂の大塩平八郎の乱がまもなく越前へも伝わっていたからなおさらであった。各藩では年貢の引下げや救米を実施し、窮民の救済に努めた。町在富裕者による施米、米屋の安値販売なども行われた。その結果であろうか、この時期、組織的な百姓一揆はほとんど起こらなかった。



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