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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    三 天保期以降の一揆・打毀しと民衆運動
      五箇・粟田部の一揆
 天保四年(一八三三)は五分の作柄だったという。この年八月中旬まで長雨が続き、各地の米価が上がりつつあった。九月九日、今立郡五箇のうち岩本村の四ツ辻番小屋と大滝村の神社大鳥居に「九月廿日粟田部米問屋中潰シニ行」との張紙があった。そのとおり二十日夕に蓑虫が押し寄せ、粟田部村の米問屋九軒、北小山村枝吉村二軒、岩本村三軒、計一四軒の家が打毀された(岩本区有文書、「天保飢饉録」赤松太刀夫家文書)。後の福井藩の糾明などによれば、参加者は大滝村を中心とする五箇地方の百姓たちであった。

表138 文政12生(1829)の五箇御用金割付方

表138 文政12生(1829)の五箇御用金割付方

 これには五箇の奉書紙生産・販売が十八世紀中頃からふるわなくなったことと関係があったと思われる。紙漉きに従事する人々は次第に困窮の度を深め、化政期には一層深刻になってきていた。文政十二年(一八二九)、福井藩江戸中屋敷が類焼し、町在へ御用金が課されたが、これも大きな負担となった。五箇の場合は表138のとおりで、村高で比較すると紙漉き従事者の多い大滝村の負担がとくに多かった。岩本村では割方をめぐって寄合を行い、家数九四軒のうち見付割を命じられた富裕者六軒と貧窮者・孀各六軒ずつの計一八軒を除き、残り七六軒に家別に割り付けた。一〇〇匁から一匁までそれぞれ経済力に応じた割方であったが、家数で村の半分以上を占める雑家の大部分にも割り当てなければならなかった。このため同村では雑家はもちろん村全体がますます困窮し、年貢の見通しも立たず、百姓たちは「実々前代未聞之世柄ニ相成一統歎息」するばかりであったという(内田吉左衛門家文書、岩本区有文書)。
 天保元年十一月、定友村の小前二〇人ほどが庄屋宅へ願書を持参し、村内の頭百姓に対し拝借米を出すよう庄屋として説得してほしいと要求した。これにならって岩本村でも十二月中旬、小前五〇軒余が庄屋宅へ来て頭百姓から小前一軒に付き飯米三俵を一〇年賦で貸し付けるよう取次ぎを求めた。大滝・不老・新在家の各村でも同じような動きがあった。同三年には紙漉業の不振から「末々・・・・・方之男女」の渡世のためと、五箇の村ごとに藩へ拝借金を願い出た(岩本区有文書)。各村内では村役人・頭百姓層と小前層が対立していたが、これに対し五箇全体、小前層が同じ要求をもって行動できる地域となりつつあった。
 このような状況をもとに打毀しが起こったのであった。参加したのは大滝村など五箇の小前層と思われるが、打毀しの具体的な理由や他村・他領の者が混じっていたかどうかなどは不詳である。ただ粟田部村は周辺農村の繭など商品的農産物を背景に発展した在郷町で、隣郷の五箇とも深い関係をもっていた(第三章第一節)。同村の木津家が酒飯を強要されているが、同家は酒造業や生糸の販売に従事していた。岩本村の打毀し対象となった内田家と野辺家は奉書・布問屋と酒屋、小林家も奉書・布問屋を営み、ともに高利貸しとしても大きな力をもっていた。したがって、この打毀しは化政期の勝山地方の百姓一揆と同じく、農村商工業の発達した経済地域の中で起こされたものであった。
 打毀し発生後の福井藩の対応は迅速で厳しかった。打毀しの翌日から多数の役人を派遣して参加者を割り出し、約一〇〇人を福井へ連行した。廻文が今立郡から南条郡の今庄や浦方、さらに丹生郡織田村、同糸生、それに三国辺へと広域に流れていたという情報をつかみ、領内村ごとに「雑家・末々迄」一人残らず動静を確認し報告させた(石倉家文書、右近権左衛門家文書)。翌五年、大滝村の一人が頭取として処刑され、同村三役は村追放、支配大庄屋と五箇の他の四か村役人も罷免され、五箇村全体には過料銀が課された。福井藩役人の出張費用として銀約三貫匁も五箇に賦課され、過料と併せて徴収された(岩本区有文書)。この騒動のとき、鯖江藩領今立郡町村で二軒打毀すとの張紙があったという。同藩でも粟田部への参加者の有無等を厳格に調査しているが、その費用は十月五日までで一貫八三八匁余を要したといい、これも村方の負担とされた(福岡平左衛門家文書)。



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