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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      頭百姓との対立
 下村でもみられたように、後期になると、従来からの頭百姓(面百姓)の中には没落する者も現れ、また小百姓の成長もあって、村によっては頭百姓と小百姓あるいは惣百姓が対立することがあった。三方郡世久見浦では、寛政三年(一七九一)二月にそのような対立が起こっている。同浦では、古来より一〇軒の家が頭百姓で、そのうち与左衛門家が衰退し、山一か所を庄屋・組頭が預かっていた。その組頭は六人もいた。ちなみに、同浦の家数は、文化四年に四六軒である。惣百姓の要求は、与左衛門分の山を外字山として「惣方出目之内」に入れてほしい、また、天明三年(一七八三)からの飢饉以来困窮しているので、組頭は二人ほどにしてほしい、選び方は、古来よりの頭百姓のうち、与左衛門分は惣百姓の中から選び、残り九軒と合わせて一〇軒の中から、その時に村納めがよい者を二人ほどを選ぶようにしてほしいというものであった。惣百姓は、別の請書の中では、組頭に「一身致申間敷候」、もし一人でも「一身」する者がいたら、吟味してその者を越度にすると記している。
 これに対する組頭の反論に対して、翌年二月に百姓中が浦方組庄屋中へ提出した「口上の覚」には、(1)与左衛門山の収入は組頭中の雑用にして、村方へは少しも入れていない。しかし、惣百姓に組頭雑用を残らず掛けているのも間違いない、(2)組頭には村入用は掛けていない。村入用についても組頭が勝手にしている、(3)年貢について算用違いがあったが、組頭中は少しも知らないということであるが、村役人として役筋を存じないやり方であるなどとある。翌月、浦方組庄屋衆が間に入り、与左衛門分の山と網場は惣支配とすることで内済している(渡辺市左衛門家文書)。なお、この浦の分村運動については後述する。
 三方郡新庄村の百姓は、以前は本家百姓・長百姓とも呼ばれる五〇軒の「株」と、株から別家し株に支配される二〇〇軒余の小百姓とからなっていた。諸入用割・人足割などは、すべて株単位に負担していた。諸入用割の半分は株が負担し、残る半分は株下の小百姓が負担する、御用人足は株が株下に割り渡すことになっていた。ところが、文化四年に起きた山崩れによって戸数が一八〇戸に減少したことで、潰れた株ができ争論となった。すなわち、潰れた株の後継者は、その株下の百姓のうち所持高の多い者の中から選ばれるが、それを選ぶのは株たちであるので、大高持である株の意向が強く反映され、小百姓の信頼を得ている者がなるとは限らなかったからである。それで、潰れた株の後継者が適任かどうかをめぐる争いはこの後頻繁に起こっている。また、株にも大小があり小さな株の株下には負担が重かったため、文化六年には小百姓から諸出銀を株割から高割へ変更してほしいという要求が出されている。株たちが要求を受け入れなかったため、争論は長引いたが、同八年に三方郡郷方役所から株に有利な申渡しがあって解決し、文化九年正月に請書を提出している(新庄区有文書、小林一男家文書)。



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