文政十一年末から江戸の寺社奉行所で一揆の吟味が開始された。江戸へ送られた者はもちろん、関係あると思われた六一か村(図22)の村々から代表が呼び出され、一揆の理由と参加者の確認を中心に吟味が進んだ(山内源太夫家文書 資7)。
郡上藩領細野村庄屋清三郎は、十一月二十一日に若猪野陣屋から呼出しをうけ、野津又・田名部・別所の三か村の庄屋と一緒に同二十四日に村を出立した。江戸では同藩留守居の指示した紀伊国屋方に宿泊、翌年にかけて奉行所の取調べを受け、文政十二年六月四日に帰国することができた。翌天保元年(一八三〇)四月二十五日、清三郎は再び江戸へ呼び出されて吟味をうけた。終了したのは六月二十九日、幕府の裁許が出たのは天保二年六月のことである(赤井富士雄家文書 資4)。
吟味は厳しく、当初捕縛され江戸送りとなった者や途中で入牢を命じられた者など一四人が吟味中に死亡した。清三郎なども、答え方によっては一命にもかかわると緊張した場面が度々だったらしい。裁許の内容は多くが牢死したこともあってか、それほど重くなかった。伝兵衛は材木の扱い方が「欲心ニ拘り後闇取斗」であるとして、田畑家屋敷取上げの上所払いとされたが、外の入牢者は放免となった。六一か村の庄屋・長百姓は「叱り」、惣百姓へは計四七九貫文の過料が課されて終わりを告げたのであった(赤井富士雄家文書 資4)。
吟味を通して明らかになったのは一揆側の真の目的である。伝兵衛は調べに対し、材木伐採が雨を呼んで一揆が起きたといわれるが、むしろ藩札の値段違いからではないかと答えた。勝山近郷は勝山藩札と福井藩札の両方が通用しているが、福井銀札は金一両六五匁五分、勝山札は六二匁三分である。ところが勝山町人が近郷百姓から米穀などを購入するときは福井札で支払い、町方から売り出す品物は勝山札で取り立てるため、村方に損失が多く困っている。これを是正させるため高島河原へ集まろうとしたのだと返答しているのである(山内源太夫家文書 資7)。 |