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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     二 文化・文政期の百姓一揆
      文政十一年勝山一揆
 
 文政期は文化期にもまして各地で百姓一揆の風聞が続いた。まず、直前の文化十四年九月、郡上藩陣屋のある大野郡若猪野村へ「蓑虫」が寄せるとの廻状沙汰があり、陣屋役人は郡上藩領北市村の百姓一人を入牢させた(石渡文書)。文政二年六月四日には本保代官所・飛騨高山陣屋へ捨訴があったとして郡中が騒いだ(松屋文書)。同年九月には鯖江藩領で今立郡谷口組の大庄屋に不満をもった組下村々が騒ぎ立つ空気があったという(『間部家文書』)。六年七月二十四日、勝山町と深い経済関係をもつ白山麓の幕府領牛首村で商売を営む八、九軒が打毀しにあった。これは彼等村方商人が勝山町商人の村への出入を拒んだため、同村の小前たちが行ったものと伝える(石渡文書)。八年はまれにみる大水害の起きた年であるが、同年八月九日から十六日まで勝山城下より九頭竜川下流の村々で「蓑虫」沙汰が続き、三国辺まで噂が流れた(「三国町諸用記録」越前史料)。この時は勝山藩を初め福井・鯖江など各藩役人が出張して厳戒体制をとった。十年七月中にも騒がしい風聞が何度も伝わった(比良野八郎右ヱ門家文書)。
 このような状況のもと、翌十一年に勝山一揆が起こった。事前に廻状が村々に廻されたが、それには幕府領・勝山藩領・福井藩領・郡上藩領・鯖江藩領など、勝山町から西の大野郡・吉田郡四一か村の名が傘状に記され、その周囲には、
写真102 文政11年勝山一揆廻状

写真102 文政11年勝山一揆廻状

   七月廿七日夜六ツ時、みのむしをこ(起)し候、壱人も不残出スべく候、のつまた(野津又)伝兵衛百性なんぎ(難儀)候、さしき山いたし候故毎日雨降り候……
と書かれていた。「みのむし」に出ない家への制裁をほのめかす文言も続いていた(小木昭二家文書)。実際、その日八ツ時、幕府領の堀名中清水村・森川村・伊知地村・坂東島村、それに福井藩領吉田郡浄法寺村辺の者五、六百人が郡上藩領野津又村庄屋伝兵衛宅へ押し寄せ打毀した。同人が隣村の同藩領横倉村内の領主林を買い受け、材木伐採を行ったからという。作業は坂東島村油屋藤四郎が請け負ったが、作業開始後雨天が続いたため、若猪野代官所は「人気ニも拘」るとして伐採中止を命じ、藤四郎も伐採を断った。だが、伝兵衛が代官所の許可を受けたとして内分に伐採を始めたため、近郷の百姓たちが怒ったものという(赤井吉右衛門家文書 資4)。野津又村内の「蓮如上人御旧跡之古杉売払」もあって雨降りとなり、「世上一統難渋」したから野津又川(皿川)下流の伊知地村・東野村(幕府領)・坂東島村辺から打毀しに及んだとする記録もある(比良野八郎右ヱ門家文書)。
 翌日夜、再び伝兵衛宅へ押し寄せて少々壊した一揆勢は、それより勝山城下西入口に接する九頭竜川高島河原へ詰めかけた。しかし、待ち構えていた勝山藩兵が実力行使に出、死者二人、負傷者多数を出す混乱となった。一方、吉田郡の者は小舟渡の茶屋仙助宅を、仙助が一揆に不参加であることを理由に打毀した。その後、幕府領比島村の舟渡しを利用し対岸の勝山藩領へ渡ろうとしたが、そこで勝山藩兵に阻止され、一人が死んだという。なお、福井藩領の者は廻状に従い郡上藩若猪野陣屋へ押しかける予定であったといい、同陣屋へ寄せるという話も早くから流布していた(「家譜」)。混乱の中で福井藩領の者六人と幕府領堀名村・東野村・伊知地村の三人が捕縛され、その後福井藩領の者は福井へ連行、幕府領の者は後に四人を加え七人が江戸送りとなった(比良野八郎右ヱ門家文書)。



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