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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     二 文化・文政期の百姓一揆
      勝山町打毀し
 文化七年、勝山町は困窮を理由に藩の許可を受け、木挽・材木屋に依託して大杉沢の材木を伐採し、板に加工して販売を始めた。するとまた天候が悪化し、「軽キ者共」が「悪評」を流したため、あわてた藩は作業の中止を命じた。翌年二月二十三日、町方は協議の末再び藩へ作業の開始を願い出たが、風評を気にした藩は町の要望を拒否し、人足を出して大杉沢の作業小屋や伐採済みの材木・板類を焼き払った。ところが、作業を請け負った木挽などが焼け残った材木類を運び出そうとし、これが伝わって村々に一揆廻状が走った。こうして三月五日、大規模な勝山町打毀しが起こった(比良野八郎右ヱ門家文書)。
写真101 奥山絵図

写真101 奥山絵図

 廻状は村名を円状に記した傘廻状形式で、毎日二、三通ずつ回り(比良野八郎右ヱ門家文書)、打毀しに参加したのは先の大杉沢騒動の時と同じく「野向四ケ村・川北・川南惣百姓共」だったという(平沢善兵衛家文書)。勝山城下より加賀および福井・丸岡へ通じる村々、九頭竜川左岸の鹿谷郷などからも加わったようである。積極的に煽動する者があり、参加者は各領入り交じりおよそ九〇〇人だったとも伝える(比良野八郎右ヱ門家文書)。廻状は丸岡藩領坂井郡上久米田村や福井藩領吉田郡浄法寺・志比辺まで回り、「御領私領共国中」およそ二万人が勝山町南北の口からなだれ入ったという記録もある(「勝山御領百姓共騒動一件帳抜書」土井家文書)。
 勝山町近くの九頭竜川高島河原に集まった群集は、夜九ツ時一度に町へなだれ込んだ。近くの長淵町から打毀しが始まり、城下一帯に広がって、翌日夜まで続いた。被害にあった家は史料により異同があるが、越前ではかつてみないほど多数であった。すなわち、二二軒が強く傷んだという記録から(石渡文書)、大荒しが木挽・米屋・銭屋の三軒で中壊しが一一軒の計一四軒というもの(比良野八郎右ヱ門家文書)、あるいは二〇軒というものもある(平沢善兵衛家文書)。外に大荒し三三軒、蔀戸を折られた家一七、八軒、計五〇軒というものや(松屋文書)、打ち崩し三十数軒、少々崩し二十数軒、計六〇軒という記述もある(「勝山御領百姓共騒動一件帳抜書」)。材木関係者のみならず、富裕商人を中心に町方全体に攻撃をかけようとした感さえある。平泉寺の僧が勝山藩財政にかかわっていたためか、平泉寺を打毀せという声も挙がっていたという。
 勝山藩は藩兵を揃え、また福井・丸岡・大野・鯖江の各藩や郡上藩若猪野役所からもそれぞれ警備の兵を出したが、直接鎮圧しようとはしなかった。勝山藩奉行は高島河原へ赴き、鎮まるよう説得を試みたが効果なかった。最後は城下寺院惣触頭の尊光寺の阿弥陀仏を先頭に立て、町方惣寺院の僧侶が説得に乗り出し、ようやく落ち着いたのであった。それでも十一日頃まで不穏な噂が続いた。
 寺院方が説得した際、次の三か条を勝山藩に確約させることを請け負ったという。藩もこれを認め高島河原に高札が立てられた(「稿本勝山史料」勝山市教育委員会保管文書)。
     相定申寺院受合事
  一、杉沢におゐて杉山為致間敷事
  一、於奥山炭為焼申間敷事
  一、於町方諸色之直為致間敷事
        未
         三月        諸寺院
 大杉沢で材木伐採と炭焼きを行わせない、町方商人に不公正な値段を付けさせないという内容である。材木伐採が騒動の原因であるが、同時に勝山町商人の商業行為、とくに諸物価への村方の不満がもう一つ大きな要因となっていたことがうかがえる。この頃、在方商人や他領からの仲買商人と町方商人との対立が厳しさを増していた。また、用水をめぐって勝山町と上流六か村、とりわけ郡上藩領四か村とが争論を続けていた。奥山の利用をめぐる争いも絶えなかった。町方と村方のこのような対立が高まり、大杉沢に関する人々の俗信と天候不順を名目にこの打毀しが起こされたわけである。
 三月二十一日、諸物価値段表が各村に回された(勝山市教育委員会保管文書)。事態は急飛脚で江戸藩邸に知らされており、四月四日、町年寄二人罷免、町庄屋三人とも差控えなどの処分が告げられた。十七日、細野口一人・新在家一一人・滝波二人、計一四人が「殊之外働」として牢入りとなったが、六月六日に赦された。七月十一日に江戸から勝山に着いた藩主長貴は、家老以下奉行・代官等関係家臣団の処分を行い、大庄屋も交代させた(松屋文書など)。ともかく藩は人々の不満を宥め、人心を一新して藩政の建直しをはかったのであった。



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