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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    一 頻発する村方騒動
      地主と小作
 農民層分解の進展のなかで、小高持や無高の中には大高持の田畑を借りて生活する小作百姓が増加していた。そのため地主と小作人の間で小作地の斗代や小作米をめぐる対立が十八世紀後半から目立ち、十九世紀には各地で見られるようになった。
 寛政八年十月、郡上藩領丹生郡余田村の小前や若者たちが一致して小作問題で新法を申し立てることがあったが、これに不安を感じた頭百姓八人は一致して対処することを申し合わせた(増田喜左衛門家文書)。文政四年、同藩領大野郡大渡村では、夏の旱損による水争いがもとで小作二三人が庄屋方へ押し寄せ、秋の年貢米は一粒も納入しないと言い張った。これに対して大高持二人は「小作請卸」の事は互いに相談し合うこととし、翌年正月にこれを文書で確認しあった。(山端吉三郎家文書)。余田村の場合と同じく村内の高持が結束し、その中でも大高持が村運営の主導権を握り、小作年貢などにも強い姿勢で当たろうとしていたことがうかがえる。
写真100 今市村小前一味連判状写真

写真100 今市村小前一味連判状写真

 小作の動きも活発であった。寛政八年、勝山藩領大野郡滝波村では大勢の小作人が村の道場で集会し、代表三人が庄屋宅を訪れて、小作米を稲一〇〇刈に付き米二斗ずつ軽減するよう、村全体として実施することを迫った(笠川喜多右衛門家文書)。文政九年、福井藩領足羽郡今市村では前述のように四四人が傘連判状に連署して団結し、小作地の斗代や小作米の軽減を求めた(片岡五郎兵衛家文書 資3)。同十二年四月には鯖江藩領大野郡矢戸口村で、一人の地主が外字米軽減の要求を認めなかったことから小作人たちが反発し、今後この地主と雇われ契約をすればその者を村八分にすると貼紙を出した(『間部家文書』)。天保二年十二月、勝山藩領平泉寺村では小作人五人が不作を理由に村の西念寺に寄り合い、手当を要求している(『平泉寺文書』)。
 このように十九世紀前半には、小作米の基礎となる外字斗代や小作年貢をめぐり、地主層と小作人との対立が強まっていた。中には滝波村のように、村として庄屋の指導で軽減を実施するよう要求することも起こった。ただし、地主・小作間の対立は、頻発する村方騒動の中ではそれほど大きな位置を占めるものではなかった。



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