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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    一 頻発する村方騒動
      宿問屋と人足役
 街道筋の宿駅に当たる村では、一般の村方騒動に加え問屋および宿役にかかわることで騒動が起こった。問屋の職務や特権、村の伝馬・人足役やその他諸役負担の割方、荷物運賃等をめぐる問題である。
 元禄十年(一六九七)、坂井郡細呂木宿で、問屋を兼ねる庄屋が「威勢」をかまえ私欲に走り、小百姓を困窮させているとの批判が上がった(森藤右衛門家文書 資4)。天明二年、南条郡鯖波宿では問屋がその職を「我家督」のように心得、渡世の足しにしていると惣百姓が指摘し、問屋職を隣宿並に順番勤めとするよう藩へ願い出ている(石倉家文書 資6)。このように早くから宿問屋をめぐる村方内の争いがあり、問屋の特権を抑制したり問屋職を特定の家に固定させない動きが起こっていた。
 十九世紀に入ると、問屋をめぐる問題は複雑さを増してくる。文化六年、南条郡湯尾宿の問屋の間で争いが起こったのはその一例である。同宿の問屋は二〇年前に五人から新興の大高持が加わって七人になり、まもなく庄屋は一人の問屋が兼帯するようになっていたがこれに対し新興問屋武助が問屋と庄屋は別々に村中が「家役廻り」で勤めるよう主張し、八年八月、ついに元の五人が藩へ訴訟したのである(山内治郎左衛門家文書 資6)。その結果はわからないが、天保二年正月、今度は惣百姓が問屋を奉行所へ訴えた。七人の問屋がその役職特権をかざして伝馬人足を勤めず、大判荷物駄賃の諸帳面もはっきりしない、それに庄屋を兼帯して横暴であるという。これは三月に内済となり、今後問屋も惣馬借並に伝馬役を勤める、宿継人足も従来どおり家持・雑家全員家並に勤める、同じく大判荷物は問屋一口に一駄とし、大判荷物帳面は回覧する、人馬担ぎ賃銭は村盛算用の際に行うことなどを確認した(山口武助家文書)。旧来からの問屋に対する新興問屋の出現、その中での惣百姓による問屋権限の制限等、問屋をめぐる騒動は宿のあり方に大きな影響を与えていたのである。
 湯尾宿では問屋問題以外にも、小高持が中心となった村方騒動が早くから起こっていた。やがて寛政九年五月、小前・雑家、あるいは小百姓・雑家の名で、一四か条にわたり村役人・大高持層が不当であることを藩へ訴えた。元禄十六年の村方騒動で確認され、元文(一七三六〜四一)・宝暦期の騒動でも問題にされながら改善できなかった高半家半の諸役割方、大高持に有利な家別負担、それに雑家にかかる足役や雪中背負い賃銭、村運営のあり方などをめぐるものであった。訴訟の願書に連署したのは高持八五人中の二七人、雑家三一人中一二人、計三九人である。高持は六石余以下の小高持ばかりと思われ、主導者四人中の一人は九斗五升を所持する百姓であった。とくに問題としたのは高半家半の割方のうち、家別にかかる負担である。村規定で家役は六〇石を一軒役とし、六石以下でその二割三分から五分、一石以下でも六石までの者と大差なく、雑家もこれに準じている。これでは「小百性雑家之者共・大高持之雑用手伝仕候割法」であると批判したのである。しかし、藩の裁許は大高持方の主張を認めるもので、この騒動でよい結果は得られなかった。
 寛政十二年、今度は先の三九人の大部分を含む小百姓・無高四三人が結束し、人足役与内を馬持と高持で配分するのは不公平であり、それに諸小役銀の扱いが不当であると奉行所へ訴訟しようとした。中心となったのは九年のときの連署人の一人で三石を所持する小高持一人と雑家二人である。三人は福井煎餅町勝木惣三郎の協力で訴訟を進めた。勝木は町内では「悪口者」の評判だが、「頭百姓を落シ小前之者ニ目を懸ケ」ていることで知られ、「首か落而も小前之者願」を成就させてやりたいと頑張ったという。ただし、この時も藩は訴訟側を退け、翌享和元年(一八〇一)二月、首謀者三人が処分されて終わった。
 このように湯尾村の村方騒動はいずれも思わしい成果を得ることが困難であったが、それにもかかわらず小高持、無高などの運動はやまなかった。文政六年にも庄屋役替え・諸雑用・人馬運送賃銭をめぐって大方と小方が争い、翌年九月外字人五三人を含む惣百姓一三九人が新規定を確認している。小高持や無高百姓にとって、家別負担の軽減と人足役負担への与内の増加は切実な願いであり、交通運輸の発達と相俟って、街道筋の村はいよいよ厳しさを増していったのであった。



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