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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    一 頻発する村方騒動
      今市村の騒動
 足羽郡今市村は村高一〇二〇石余、福井城下から南に約六・三キロメートル離れた北陸道沿いの村である。
 寛政元年、小百姓を称する二〇石以下の高持百姓が、頭百姓に対し悪作・困窮を理由に諸人足役の高割負担を求め、新しい規定が設けられた。文化七年四月には諸割法等をめぐって争論となり、二〇か条にわたる「村諸締り方并諸割物記録定証文」を作成した。それにより、人足役は寛政元年の規定より小高持層の負担がさらに軽減された。

表134 文政元年(1818)今市村の潰れ者負債割賦銀

表134 文政元年(1818)今市村の潰れ者負債割賦銀

 文政元年末には「高持雑家之内小前困窮者」二二人が、困窮者の負債を肩代わりした村連判借銀と年貢未納者の庄屋取替銀について、これらの負担分を年賦とするよう強く求めた。藩役人の指示で大庄屋扱いとなり、片岡五郎兵衛は最終的に、表134のように五人分の潰者負債額だけを村で負担するということで解決させた。請人となっていた加左衛門分を除くと、村として負担するのは銀一貫六九二匁一分五厘となるが、実際にはこのうちの大部分一貫六二〇匁を二七人が高割分と相応の与内として、五八匁八分を一八人が高割分のみとして、三匁二厘を六人が負担した。五石七斗五升以下しか持たない二一人の高持百姓は免除された(一〇匁三分三厘の扱いは不詳)。この件に関し済口証文に署名したのは百姓四六人と、村内で屋敷高だけを認められている「屋敷高持」二三人の計六九人であった。つまり、余裕のある高持百姓、それも上層の高持に応分の負担をさせ、困窮した高持や小高持にはほとんど負担させない形でこれを解決したのである。それを村方騒動により小前の要求として認めさせたわけである。
 その翌二年には庄屋選出をめぐりまた村内が騒動となった。庄屋は二〇石以上の高持から入札で選ぶという規定が破られ、それ以下の者が選ばれたためである。この時は再入札を行って村法に従った庄屋を選んだ。文政九年春には雑家を中心とした小前四四人が連判し、小作地外字地の斗代と小作年貢の引下げを大高持方へ要求した。このとき小前方は傘連判状を作成して結束を固め、藩がこれを知って吟味を行ったが、大庄屋の尽力もあって処分のないまま、要求が実現して解決をみた(片岡五郎兵衛家文書 資3)。
 以上のように、今市村の場合、寛政期には小百姓の運動であった村方騒動が、次第に雑家層を含むものに発展し、文政期には雑家層中心の小前騒動として村を動かす先鋭な運動となっていった。ここでの小前とは小高持、および「屋敷高持ニ而村切之百性」という、藩へ提出する公的な帳面では無高だが、村内では屋敷地を持ち高持扱いとなっている百姓、それに雑家層である。彼等は一体となることが多く、そのため雑家層なども力を得て、村寄合の席では高持を差し置いて発言することがよくみられたという。
 このような動きに対し、大庄屋片岡五郎兵衛は藩の意を酌みつつ村存続を第一とした解決に努め、小高持、雑家層など小前百姓の要求を認めることが多かった。このため、やがて支配下二三か村の庄屋が一致して、彼の組から離れたいと藩へ願い出たほどであった(大森英世家文書 資5)。



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