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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
    一 頻発する村方騒動
      村方騒動の頻発と小前
 表132は敦賀郡を除く越前で発生した村方騒動を、近年公刊された史料集(県史、市町村史等)によりまとめたものである。未見のものを含めると、実際にはこれよりはるかに多く起こっているであろう。しかし、この表による限りでも、江戸後期、とくに十九世紀前半に村方騒動が激増していることがわかる。騒動の中心は年貢・村盛・郷盛等をめぐる算用法、とくに村内百姓間の負担の割方をめぐるものであるが、外に庄屋役や組分けをめぐる問題、枝村と本村との対立、地主・小作関係によるものなどがあり、宿役にかかわる争いもあった。

表132 敦賀郡を除く越前における村方騒動発生件数

表132 敦賀郡を除く越前における村方騒動発生件数


表133 足羽郡合谷組大庄屋の扱った村方騒動

表133 足羽郡合谷組大庄屋の扱った村方騒動

 この背景には、天明の飢饉で打撃を受けた村方が次第に立直りを見せ、化政期には商品経済の発展によって、一部地主の形成とともに窮乏農民も増加したことなどが考えられる。このため十九世紀に入る頃から、村方騒動は十八世紀のそれを継承しつつ各地に頻発し、内容的にも厳しさを増して、村は激しく揺れ動いたのである。発生数は天保飢饉後もあまり変わらず、また、幕末期には政情不安の影響を受けた村方騒動が起こるようになる。
 福井藩は明和五年(一七六八)の百姓一揆のあと、農政を宝暦十一年(一七六一)以前の体制に戻すとともに、天明七年(一七八七)十二月には村方に対する「成立之趣法定書」を示して、荒廃農村の再建方法を明らかにした。また、寛政二年(一七九〇)九月には菜種の専売制を打ち出した(「家譜」)。二つの施策とも大庄屋に大きな役割を持たせ、彼等の指導・管理による村方の安定と藩財政の補填を図るものであった。だが、そのことで村方騒動も新たな展開をみることになった。
 表133は寛政元年から文政末年までの間に、福井城下近郷の足羽郡合谷村の大庄屋片岡五郎兵衛組下の農村で発生したものと、彼が解決に関係した村方騒動をまとめたものである。これによると、騒動の原因として、経済的不公平の是正や負担の軽減、村政の民主化、とくに人足役や役銀等の負担方法、借銀の解決、それに小作問題に関するものが目立つ。また、騒動主体として小百姓、小高持、小前、雑家(無高)などがみえているが、江戸中期の村方騒動が小百姓を中心としたのに対し、小前、雑家の立場を掲げたものが起こっていることに特色がある。
 なお、小前という用語は、一般的には前期から小百姓とほぼ同義で用いられている。しかし、表133の村方騒動時の使われ方でみると、例えば文政八年(一八二五)坂井郡荒谷村の小前は高持百姓を意味し、文化五年(一八〇八)丹生郡清水畑村の小前三二人は村内中位の高持一〇人と二二人の雑家、文政元年の今市村小前二二人とは小高持と雑家、同九年の同村小前四四人は少数の小高持と多数の雑家を意味していた。騒動の主体と相手方に用法の違いはみられない。このように小前とは、高持である小百姓と同義の場合もあるが、さらに高持と雑家の双方を含む場合が多い。すなわち、この頃小前の用語は、小百姓と無高層を結集する村方騒動の主体を意味するものとして、意識的に用いられるようになったのである。
 ところで、この時期の村方騒動発生の背景として、石高所持による旧来からの家格を基準とした村社会が変化しつつあったことも見逃せない。同じく城下近郷の幕府領福井藩預所丹生郡朝宮村の村方騒動によってみておこう。
 天保二年(一八三一)、四〇石余の石高を所持する孫左衛門は、村の頭分である五人組頭の一人にも認めてもらえないと預り役所へ訴えた。現実の持高に応じた村運営をするよう求めたのである。これに対し村役人・頭百姓側は、当村には頭分に関する古くからの村法があり、孫左衛門は四、五年前までは小高持にすぎず頭分になる規定に合致していないと反論した。例え今は二斗か三斗しか所持しなくても、家格が村法に合っていれば頭分であり、それが村の仕来りであると主張したのである。
 このことからは、小高持や水呑の中から大高持に上昇する者があり、旧来からの家格に基づく村維持が困難となってきていることがうかがえる。孫左衛門は村にあって、商売のかたわら七石から一〇石を手作りし、他は小作に出す経営を行っていた新興の農民であった(岩堀健彦家文書 資5)。彼のような新興農民が台頭し、村を動かしつつあったのである。彼の場合、旧来からの村の家格存続を是認し、それに沿った要求をしているようにもみえるが、現実には自己の経済力に見合った位置づけを要求し、村の秩序を変えつつあったのである。そして、このような孫左衛門やその同調者が村方騒動を起こす勢力となるときも、小前と呼ばれたのであった。



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