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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    六 小浜・敦賀の打毀し
      天明の敦賀の打毀し
 天明三年は大凶作であったので、小浜藩は冬に敦賀の津留を命じた。米商人はいっそう買占めにはしり売惜しみをしたので、秋からじりじり上がり始めていた米価は、四年閏正月には一俵銀四二匁にまで高騰した(表130)。困窮した百姓や町人たちは、立て札や落書によってそれを訴え、藩に対して商家の打毀しをほのめかした。四年正月二十八日北町奉行所門前に張られていた落書には、次のようなことが書かれてあった。(1)町の下層民や在方の高持百姓には藩からの恩恵があるのに、家役負担のある在方の無高百姓には少しもないので、無高一人前に二俵の拝借米をお願いしたい。(2)これが実現できないならば、米を買い占めている問屋・米屋・酒屋へ押し寄せ、無理に借用する。これらのことを「敦賀郡中」の名で、「御本領」(小浜藩)・「飛騨守」(野坂領)・「越前守」(鞠山領)・「三之丞」(井川領)の役人宛に要求している。閏一月御影堂前町に立てられた札には、船野長左衛門・土手仁右衛門・大坂屋・丁字屋などを「火ニ而御見舞申そう」とか「米買込候者ヲ一々こぼち可申」などと書かれていた(「天明歳中聞書」柴田一男家文書)。

表130 天明期の敦賀の米価

表130 天明期の敦賀の米価

 これら落書や立札に驚いた商人の中には、町在の飢えた人々のために遣うようにと、金子二五両ずつを二月三日夜、町年寄道川三郎左衛門と代官の家に投げ込んだりする者や、加賀屋・丸屋半助・大乗寺などのように貧民に施行をする者が現れた。また、非難の的となっていた米商人のうち一二人が仲間を作り、前年冬から「米銭ヲそれぞれ集メ施行」したが、人々はこの仲間を「ごもく中間」とか「鬼ニ衣ヲきセたようなもの」ということで「ころも中間」とか悪しざまに呼び、「町中のごもくをよセて土手ニつき(土手仁右衛門) あとのさば(裁)きハかみのさいきやう(船野長左衛門)」と狂歌にも詠み込んだ(「天明歳中聞書」)。
 小浜藩は、敦賀郡内の百姓に対して米三五〇俵の植え付け飯米を貸し付けたが効果がなく、疫病の流行もあって無高の百姓や下層町人は困窮していった(『敦賀市史』通史編上巻)。
 天明四年六月二十日夕刻、網屋伝兵衛宅の腰板と三宅俊助宅の門前に、町の米「買〆之者打壊」し予告の貼紙がなされ、翌朝見つけられた。それには、東町で二軒、庄町で一軒、三日市町で二軒、唐仁橋町で一軒、西町で二軒、合計八軒を打毀すことが書かれていた(『敦賀郡誌』)。役所や商人たちは春以来のこともあり、「定而おど(脅)しならん」とたかをくくっていた。しかし、この時にはすでに「廿三日くれ(暮)六ツ時、敦賀川原口へ御出可被成、相揃御相談可申候」という「村々御年寄中様」に宛てた天狗廻状が領内の村々を廻っていた(「天明歳中聞書」)。
 六月二十三日夜四ツ(十時頃)過ぎ、いよいよ小浜藩が杉箸騒動と名付けた打毀しが起こった。粟野・中郷・松原方面から集まった百姓たちは、塔場口より町に押し寄せ、まず御影堂前町桶屋長次郎、続いて東町吉田屋伊兵衛、西町油屋市太夫・生水文助、それより三日市町の仲天屋徳兵衛・質商土手仁左衛門、さらに唐仁橋町船野長左衛門を打毀し、夜が明けて、引き取る際に塔場町米屋久助を少し打毀していった。打毀されたこの八軒以外にも、能登屋利兵衛・沢屋治右衛門・備前屋・伊藤・網屋伝兵衛宅へ踏み込み、酒飯を出させたりしている。しかし、一揆勢は米・油・塩などをまき散らすことはあっても、決して強奪するようなことはなく、整然と組織的に行動していた(「天明歳中聞書」)。
 それまで傍観していた藩の役人は、一揆が一段落するとみると、一揆に参加していた百姓に足軽や近在の庄屋をつけて村まで送り返し、すかさず徒党禁止の触を廻し、今後一揆に参加しないように血判起請文を取り立て、一揆頭取の詮議に取りかかった。

表131 天明4年(1784)敦賀の一揆関係者の処罰

(準備中)

 天明五年二月十四日、代官所元締藤村完治(翌日手代市太夫と交替)・小西武助および番人八人が、石灰改めと称して杉箸村に宿泊し、翌日夜に一揆の頭取として同村の彦惣・彦左衛門親子を召し捕った。親子は十六日に小浜に移送され、厳しく取り調べられた。さらに、六月には同村の甚三郎も捕えられ、同じく小浜送りとなった。詮議の結果、一揆の頭取とされた彦左衛門・甚三郎・勘四郎は、六月二十五日に敦賀町奉行小畑六左衛門によって小浜より敦賀に連れ戻され、翌二十六日に来迎寺野で彦左衛門と甚三郎は処刑され、塔場口の土橋に首が三日間晒された。逃亡していた勘四郎には遅れて七月十一日に判決が申し渡された。彼等を含めて処分された者は表131のように杉箸村の者がほとんどであり、多数の一揆参加者は処罰の対象とはされなかった(「諸事留帳」柴田一男家文書)。このことは、この一揆が「郷中八拾八ケ村・申合凡三千人斗出候」(「年々珍事書留」須田悦生家文書)規模であったにもかかわらず、百姓の不満解消のためや幕府への配慮などから、藩がこの一揆を杉箸騒動と名付けて局部的なものとしている姿勢に通じるものである。
 この一揆は、敦賀町の商人に大きな影響を与えた。天明五年二月には、町在の餓死者のために来迎寺野に供養塔が建てられた。また、六年秋には、敦賀町の裕福な商人一二人が金山蔵米一〇〇〇俵を藩より買い請け、窮民の飯米にすくい売りしたり、七年春には一升二升と小売りをし、三月末からは糸屋の下浜に救小屋を建て施粥も行った。施粥は、打毀しを避けるためになるべく長く、なるべく多くの手当をした方がよいと考えられたため、夏になっても酒屋に頼み継続された。



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