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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    六 小浜・敦賀の打毀し
      小浜藩領の村方騒動
 前期の村方騒動の原因と越前(嶺北)の騒動については本節第一項に述べたので、ここでは若狭と越前敦賀郡における村方騒動について述べる。敦賀郡が小浜藩領となるのは寛永十一年からであるが、その前年の十年に沓浦百姓が庄屋の横暴を訴え争論が起こっており(山本宗右衛門家文書)、正保三年(一六四六)から五年に大比田浦百姓が年貢や小物成の割付などについて庄屋を訴えている(中山正彌家文書)。また、天和三年(一六八三)には色浜浦(色浜区有文書)、貞享四年(一六八七)には大蔵村(刀根春次郎家文書)、元禄六年(一六九三)には江良浦(同前)の村方騒動が内済となったり、裁許されたりしている。
 若狭では、慶長十五年(一六一〇)に遠敷郡本保村で荒地の開墾をめぐって、庄屋と百姓との間で争論が起こっており、寛永十四年八月にも同村の小百姓が庄屋を訴えている。この時の小百姓たちの主張は、(1)二人の庄屋が高掛りの夫役を負担していない上に、小百姓から肝煎給米の名目で米を徴収している、(2)小百姓から肝煎役を一人任命してほしい、(3)一昨年の水損の救米一五石のうち小百姓には二石余しか与えられず、残りは肝煎給と名付け庄屋がとった、(4)村から中間奉公に出た二人の田畑三五石余のうち、よい所は庄屋が取り、悪い所を小百姓に押しつけた、(5)領主御用として庄屋が小浜・熊川へ一泊で行く時に、飯米として八升ずつ取り、合計一四石九斗五合小百姓から出させたので、雑炊さえ食べかねる小百姓には迷惑である、(7)昨年春、庄屋の年貢未進分を村の未進として扱い、その処理のためと称して飯米をとったという七つであった。同年十月には庄屋側から反論を認めた返答書が出されているが、結末は不明である。同村ではその後も、万治元年(一六五八)、寛文十年(一六七〇)などに庄屋と小百姓の間で争論が起きている(清水三郎右衛門家文書 資9)。
 三方郡南前川村では、寛文四年に村入用割をめぐって小百姓と庄屋・年寄・百姓衆との間で争論が起こった。ここでいう百姓とは三〇石から七石の高持二九人を指し、小百姓は一〇石から一石までの高持二九人であり、自分たちのことを「かじけ」とも称している。争論の原因は、百姓の持高合計五六四石余に対する草藁代銀が六三匁(一石当たり一分一厘余)であったのに対し、小百姓の持高合計一二〇石に対するそれは四四匁(同三分六厘余)と高額であったこと、また「酒銭」と称した「万事盛之入用」の割り方も、百姓が四石一斗三合(一石当たり七合余)であったのに対して、小百姓の分は二石二斗二升五合(同一升八合余)であったことなどであった。
 寛延二年(一七四九)には、大飯郡和田村の小高百姓・小百姓と大高持との間で争論が起こっている。五月二十五日の願書によれば、同村の百姓は、持高四〇石から一二石で丸役を勤める大高持と、持高九石から四石で半役を勤める小高持とに分けられていた。しかし、丸役・半役と分けて徴収されるのは塩年貢・夫人足・増給銀だけで、その外の村入用銀・諸事賄・小浜宿・庄屋扶持・夏冬勘定入用・ありき給などは、四石の小高持も四〇石余の大高持も同じく面割(家割)であった。また、村役も大高持が勤めており、村入用銀や検見による引高の配分に小高持は不満を抱いていた。これでは小高持が困窮するとして以前にも問題になり、諸事高割にし、村役も大高・中高・小高と分けて勤めるように仰せ付けられたが、一両年でもとに戻ってしまった。それで、同年、持高一五石から一二石の小百姓を丸役から半役に、九石から四石までの小百姓を半役から小半役にして負担を軽減すること、村役も大高持だけで独占せず、交替することを要求して争われた。庄屋・組頭・大高持百姓が検見入用として村方から酒を三石余も出させたのは、「私欲之取」であるとか、自分たちは困窮して「我々も百姓仕候ハ当年切と奉存候」、来年は乞食に出るか飢え死にするしかないと記している。
 三例とも結末は不明であるが、このように大高持と小高持との間で、年貢や諸入用の割方に関して村方騒動になることがしばしばあった。



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