目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    六 小浜・敦賀の打毀し
      明和の敦賀の一揆
 宝暦(一七五一〜六四)から天明(一七八一〜八九)期にかけては百姓一揆が多かった(本節第二項)。小浜藩領でも敦賀で明和七年(一七七〇)に一揆が起こっている。この一揆の原因は、同年春、小浜藩主酒井忠貫が参勤の途中に、敦賀郡市野々村の柴田権右衛門家に立ち寄った時、敦賀郡で無尽講を設置させたことにある。庄屋たちは、同二、三、四年と相次いだ御用金・調達金の賦課と、米価高騰による困窮の現状を述べて今度はお断りしたいと願い出たが、敦賀役所は厳重に申し付けた。
 明和七年六月十五日夕方、新田河原へ中郷・愛発・粟野・松原方面の百姓が多数集まり、夜四ツ時(午後十時頃)無尽講の世話人に命じられていた吉田宗右衛門と柴田権右衛門の家を打毀すべしと鬨の声をあげ、笙ノ橋まで詰めかけて無尽講の中止を要求した。これに驚いた町奉行久野九右衛門を初めとする敦賀の五奉行は、一揆勢をなだめようとしたが、一揆側は強硬な態度を崩さなかった。敦賀役所には一揆を鎮圧するだけの武力がなく、打毀しなどの騒動になっては大変だと考えた町奉行等は、一揆側の要求を受け入れ、無尽講の中止を請け合ったので、一揆側は十六日の申刻(午後四時頃)解散した(『敦賀市史』通史編上巻)。「本勝寺歴譜」によれば、この一揆に参加した村は「近郷四十八ケ村」であり、敦賀郡全域にわたるものではなかった。
 町奉行等が一揆側に約束したことは、本来ならば藩の上役の指示を仰がなければならないことであり、ましてや中止を請け合った無尽講は藩主自ら敦賀郡の有力者を集めて指示したことであったので、彼等はその専断を咎められ、翌閏六月に五奉行全員が更迭された。しかし、一揆側に約束した無尽講の中止は守られ、それまでの五回の郡内掛金銀一一貫五〇〇匁余の上納金については一部掛戻しが行われた。さらに藩は、敦賀町の御用達町人から借りていた仕法金の返済についても、その期限を一〇か年延長することを申し入れており、三方郡の村々に対しては上納金差出しの意志を確認している(『敦賀市史』通史編上巻)。一方、一揆側では処罰された者もなく、この一揆は全面的に百姓側の勝利に終わった数少ない例といえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ