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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    六 小浜・敦賀の打毀し
      松木長操と「おり米」騒動
 「酒井家編年史料稿本」(以下「編年史料」)の承応元年(一六五二)五月十六日の条に「遠敷郡新道村ノ百姓庄左衛門松木長操ヲ同郡日笠河原ニ斬ル」という記事がある。長操は、大豆年貢の俵が四斗から四斗五升に改められたため、増徴に苦しんだ領内百姓の代表として歎願書を提出し、処刑された人物であると伝えられている(『遠敷郡誌』)。しかし、『近世一』の序章でも述べたように、また「編年史料」が「当時ノ旧記古文書ヲ精査スルニ何等徴証スベキモノ」がないと記しているように、直接に長操のことを示す史料は見いだせなかった。処刑の年についても、『東洋民権百家伝』は、元和五年(一六一九)としており、「編年史料」も承応元年のこととしながら、元和五年というのが「当ヲ得タルガ如シ」としているように定かではない。
 また、江戸時代初期の小浜町で起こった騒動に「おり米」騒動がある。「おり米」とは、年貢米の一部を町人に貸付けの名目で、半強制的に大津の高値で買わせる制度である。『拾椎雑話』には「公儀より町家へ高利にて貸付米也、京極様より空印様御代に有」とあり、値段が高かったために「人々迷惑いたし」たようである。家の普請に際しても多く課されないように、遠慮したと記されている。また、「おり米の値はたゝたかにしたなれは けふごくくわぬ浜の町人」という落首も残されており、「たゝたか」は米の高値と小浜藩主京極忠高の、「けふごく」は今日穀と京極の掛詞になっている。
 この「おり米」をめぐって、寛永十九年(一六四二)に騒動が起こった。当時は全国的飢饉で、同年の小浜藩の未進米は六万俵にものぼったといわれる(本章第一節)。このような中で、町人たちは「おり米」代金の納入期限の延期と米価の引下げとを願うために、八幡宮に集まることにした。閏九月十三日、談合の時を知らせる八幡宮の鐘が連打され、これを聞いた藩主酒井忠勝は首謀者を捜索させた。十一月五日に、ときや太兵衛・箔屋三郎左衛門・筆屋因幡の三人を首謀者として牢屋に入れた。忠勝は江戸に戻ってから、この三人を湯岡で磔刑にするよう命じている。この騒動の成果は、わずかに「おり米」値段の大津高値から中の値への引下げだけであり、延納の願いは認められなかった(『小浜市史』通史編上巻)。



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