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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      永平寺門前騒動
 天明期の騒がしい状況は寛政期にも続いた。その一つは同八年六月の勝山町の材木伐採にからんだ一揆寸前の騒ぎであり、翌年には藩領全村々を巻き込んだ郷盛騒動が起きていた。大野では米不足・米価高から「下々難渋騒動」の可能性があると懸念された(宮澤秀和家文書)。
 こんな風潮の中、寛政九年に永平寺門前において騒動が発生した。永平寺には寺役を勤める大工村・百姓村の両門前(計約一二〇軒)があったが、寺の強圧的な態度に反発して門前側が騒いだ事件である。「神明堂樫木一件」(渡辺綱右エ門家文書)によると、経過は次のとおりであった。
 同年四月二日、寺側が百姓村の人足三人を呼び、法堂普請のために寺内神明堂前の樫の木を伐採するよう命じた。ところが三人は神木であるとしてこれを断った。門前の役人である五人の頭百姓全員も同意見である。大工村の木挽方も拒否するに及んで寺側は激怒し、彼等を門前から追放すると脅した。これに対し両門前は結束し、五頭は事態解決まで寺役辞退を申し入れ、また両村名で永平寺副寺役長老の下山を求めた。だが、寺側はかえって五頭を追放処分としたため、五人は下山し江戸訴訟を行うことになった。そこで六月二日、彼等を応援すべく、人々は門前の神社に集まり気勢を挙げた。此上ハ両村一統に上下なく、地頭も主人もなく経営に罷成り、此末ハ我々共望之通り身となりと、近山かゝり火をたき太鼓をうちて、男たり者者門外迄高音を立、一時ニ押寄れバ、本山寺中驚入廻露之往来も無之、右の事態となってついに寺側も折れ、五人の処分は解除された。この間、両門前は一致して「上下なく」行動した。諸経費は村入用として五月分だけで一軒に銀二匁一分六厘ずつ負担している(大久保利一家文書)。永平寺が領主の如く門前に対した時、百姓側も一揆をもって対抗したわけで、永平寺門前という限られた世界ではあったが、惣百姓一揆と同じような様相であったことがうかがえる。



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