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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      大野の打毀し
 大野では、米価が天明四年になっても下がらず、世情落ち着かない日々が続いた。同年閏正月、大野藩は幕府の徒党禁令を例にあげ、万一にも徒党騒動を起こせば重罪を免れないとし、それは第一に「村々町々之恥」であると諭告して、これを庄屋・組頭が責任をもって小百姓・水役・地名子・借家にいたるまで徹底させようとした(「町年寄用留」)。
図21 大野町の1俵当たりの月別平均米価(1785〜87年)

図21 大野町の1俵当たりの月別平均米価(1785〜87年)
注) 海道静香「『大野町用留』にみる米価の変遷」(『県史資料』5)により作成.

 ところが、図21にみえるように、二年ほど安定していた大野町の米価は天明六年の後半から再び高くなり、七年に入っていっそう高値傾向を示した。同年六月二十日夜、大野城下に近い幕府領西山村で打毀しが勃発した。同村の百姓甚之助宅が一〇〇人程の蓑虫によって打毀されたのである。彼が米を買い占めて穴馬・美濃郡上方面へ登せ米しているとの噂が広がり、同村内の者ばかりで襲ったらしい。大野町でも米が不足して甚之助の元へ買いに訪れるほどであった。大野藩はこの時も前述の徒党禁令を示して領民がこれに加わらないよう布達し、また、ただちに勝原・笹俣・若生子の三番所で米留めを行った。だが、郡上藩領や鯖江藩領の森山村・森政村でも打毀しの話が流れ、大野地方一帯が騒然たる空気となった(「町年寄用留」)。
 六月二十四日にも打毀しの風聞があり、米買商人宿の鯖江藩領木本村御器屋・西山村円助・幕府領友兼村四郎左衛門・森政村忠右衛門・同太左衛門家の名が挙げられていた(「町年寄用留」)。二十五・二十六の両日中に「穴馬并川向在之蓑虫」が出るとの話もあった。この頃次のような廻状が出回ったという(同前)。当二十五日のはん(晩)、もりまさ(森政)村舟ば(場)まで何れも様十五才外字六十まで、おとこ(男)たるもの御出、どく・よき・なた(鉈)もって皆々御出可被成候、もりまさ村三げん(軒)つぶしたく候間、無間違村々申合御出可被成候、宛名は「もりまさ・ゆいの(唯野)・西かと(勝)原・ほとけ(仏)原・うちなミ(打波)・谷々の村方へ」となっていた。唯野は勝山藩領、西勝原・仏原・打波は郡上藩領の村々である。郡上藩領が多いことは穴馬登せ米とかかわっているからであろう。実際に騒動は起こらなかったが、七月になっても噂は続き(同前)、翌年四月には大野町で米騒動から人々が町の牢屋へ集結するとの風評がたった(安達仲弥家文書)。
 このように天明期には、飢饉を背景に米騒動が都市ばかりか農村にも起こった。米を他国へ移出し、米価を高騰させるとの批判からである。寛政元年(一七八九)五月十四日頃、福井城下でも「物騒沙汰」があり、諸番が厳重の警戒をしたという(福井大学附属図書館文書)。



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