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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      三国の米騒動
 天明(一七八一〜八九)期は、宝暦・明和期に次いで全国的に百姓一揆の高揚したときであったが、その主な原因は天明二年の水害、三年の浅間山噴火・冷害等による飢饉であった。越前で米騒動と呼べるものはすでに宝暦六年、明和四・五年と三国湊で発生している。前項でみた明和五年の一揆も当初米福井町騒動の様相をもっていた。三国は米の積出し港であり、福井城下には下層町人が多く、ともに米不足の際には騒動が起こり易かった。
 三国では天明二年十月に大火があり、しかもこの当時から全国的な米価高となっていたため、人々は不安な日々を過ごしていた。三年正月には前年一俵銀二〇匁ほどであったものが三三匁に跳ね上がった。しかも販売が途絶える有様となって、毎夜物乞が出歩くようになった。八、九月になっても米価は下がらず、しかも米の抜売りが発覚したため、九月二十三日暮、ついに打毀し騒動が勃発した。対象となったのは、抜売りにかかわった川端惣次郎と番匠屋七郎兵衛・平野屋勘兵衛の家である。外にも新郷屋・池上屋平七・茶屋などの家が抜売りの疑いや塩の買占め等を理由に少々壊されたりした。この夜は三国からそれほど遠くない加賀宮越の町家が二三軒、一〇〇〇人ほどの蓑虫に壊されており、各地で騒然とした状態となっていた。



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