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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      丸岡藩一揆の性格
 一揆側が要求したのは、(1)組頭役の廃止、(2)納所米先納取立と十月津出米納入までの才覚米金の中止、(3)庄屋の一人制と順番制、(4)津出諸経費の免除、(5)前年度先納米金の返済の五点であった。
 (1)の組頭は有馬氏丸岡藩が成立して以来置かれ、宝暦十三年(一七六三)に藩政改革の一環としていったんこれを廃止し、明和六年(一七六九)に復活したものであった。それが村方の怨嗟の的となり、八人の組頭全員が打毀しの対象となったのである。「皆々同シ百性」なのに権威をかさに私腹に走り、藩からの津出俵の損失補填分も村々へ割り渡さなかったからという。(3)は村方から庄屋二人制を求めたものでなく、庄屋給などに経費が嵩んだためであろうか。(2)、(5)は御用金・才覚米金や先納と称する来年、再来年にまで至る年貢等の先取り中止やその返済を求めており、(4)とともに過重負担の軽減を訴えたものである。
 このような要求が出されたのは、それまでの藩政への不満が積み重なった結果であった。享保九年の一揆の時、すでに先納才覚金、組頭制、庄屋二人制が問題となっていた。宝暦十三年に藩政改革を始め、翌年にかけて組頭の廃止、家老以下役人の刷新、町在全部の借用米銀の返済中止を決め、これを強行した。荒廃の進む村へは土免法を適用し、入百姓を導入して再建しようとした。しかし、これらが効果を挙げえず、荒廃が進む村が多く、村方騒動が絶えなかった。そこで組頭役を復活し、彼等の協力による年貢の確保や村方成立ちを考えざるをえなかった。なお、この一揆では福井藩政の影響も無視できないであろう。福井藩は宝暦十一年に農政改革を行って組頭を廃止し、明和五年の一揆の結果これを復活したが、これに倣って丸岡藩も組頭を廃止し、再び設けることにしたことである。

表129 安永7年(1778)の丸岡藩先納米金

表129 安永7年(1778)の丸岡藩先納米金

 安永期に入ると藩の先納・借用米金の強制はとどまるところがなかった。同五年、高柳村など八か村は、藩の意向を受けて先納金津出米一四八〇俵を引当とし、京都九条家御用金三七〇両を借用させられた。同じようにこの年十二月には、平木弥次右衛門など三人の組頭が津出米三七〇〇俵を質物に一六三三両を確保している。騒動前年の先納米金は表129のとおりで、それこそ休む暇もなかった。すでに安永六年十二月に翌年の路用金を引越しと称して一一六〇両出させられており、しかも翌年八月以降は年貢への相殺も行われなくなっていた。この結果がこの一揆となったのである。
 要求は「小百姓」、あるいは「惣百姓共」の願いとして出されており、この一揆は封建的収奪の強化に抵抗する典型的な全藩一揆の性格をもつものであった。組頭への制裁を通じて藩政への対決を示したわけであるが、丸岡藩は一揆後全八人の組頭役を取り上げ、百姓方の不満をかわすことに懸命になった。一揆後の処分は不明で、同年秋になって徒党張本人として大森村の百姓が獄に下ったという記録(「藤原有馬世譜」)があるのみである。



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