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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      丸岡藩一揆
図20 安永8年(1779)丸岡藩一揆関係図

図20 安永8年(1779)丸岡藩一揆関係図

 この一揆の全容は、「丸岡領分騒動聞書」(山田外字一家文書 資4)と「百姓共騒立候一件見聞聚」(吉沢康正家文書)の二つの史料によってほぼ明らかとなる。前者は領内の一豪農が、後者は藩家臣の嶺太次右衛門章氏が見聞したことを日時を追って書き記したものである。後者の表紙裏に「先年百姓共騒立丸岡江入込候ハ享保九辰年(一七二四)也、安永八亥年迄五十六年ニ成ル」とあり、過去の百姓一揆を振り返りつつ記録しているのが印象的である。
 さて、騒動は二月十七日に始まる。この日の夜、明日北横地村(幕府領福井藩預と丸岡藩領の相給村)の布久漏社へ集まるようにと触れ歩く者がいた。次の日の午前中二、三〇人、午後から夕方には三〇〇人程が集まり、やがて一団となって南横地村から寄安、正蓮花、境、為国の各村を呼び歩いた。沖布目村で一〇〇〇人程となるや、一斉に福島村組頭(大庄屋)宅へ押し寄せ、翌日の明け方までかかって散々に打毀した。その後隣の若宮村で二つに分かれ、長畝村、女形谷村、野中村、上金屋村、定重村、福島村、高柳村の各組頭宅を打毀した。福島村は二度目である。二十日早朝には高柳村から滝谷村の組頭宅を壊し、そこから平山村へ回って同村庄屋宅を少し傷めた。昼には金津へ出、そこから丸岡城下へ向かったが、この時には約一万人に膨れ上がっていたという。丸岡藩は十八日から役人を繰り出し鎮めようと説得したが効果なかった。金津口では藩兵が惣寺中と一緒に城下へ入るのを押し止めようとしたが、「ときのこへをあけ皆々押込」んだのであった。

表128 安永8年(1779)丸岡藩一揆の攻撃対象と程度

表128 安永8年(1779)丸岡藩一揆の攻撃対象と程度

 この一揆も服装、手にした道具、打毀しの際の方法・規律など、秩序や統制がとれていた。「破れたる蓑笠を着、顔を包隠し、或者面を墨にてぬり、銘々棒杖を持」ち、夜に入ると松明を灯し、口々に「ひだるいひだるい」と叫びながら押し歩く。打毀しに際しては頭百姓が指導し、火の用心、盗みの禁止など規律を守った。攻撃の対象となったのは表128のとおりで、評判の悪い者ほど激しく、平山村庄屋のように一揆への非協力のため少々攻撃を受けた者もいた。次は野中村組頭宅の場合である。
天井・戸障子・縁板打破、座鋪之庇引落し、柱大方切折り漸残柱六本ニ而、本家建居ル諸道具衣類不残打損、長屋門二ケ所押潰、裏門茂同断、土蔵三ツ打壊、膳椀・折敷・皿・茶碗・鍋(なべ)・釜(かま)・野道具等ニ至迄一色茂不残破損、
 家の形を残しただけで、縁板・戸障子から家財道具にいたるまで徹底した壊し方である。福島村・高柳村の組頭宅なども容赦なかった。ただし、同じ組頭でも差があり、長畝村と上金屋村の場合は打毀しを免れ、酒食の提供のみに終わった。城下へ乱入した一揆勢は酒屋・煙草屋、それに豪勢な普請の町家を襲った。暗くなって神明社境内へ集合、郡奉行等が揃った所で五か条の要求書「奉願上候覚」を手渡した。彼等はその場で協議し、すべて認めると返答した。一揆方は二十日の真夜中近くようやく解散したのであった。二十二日、これを確認した藩重役等連署の書付が八三か村全部の庄屋へ一本ずつ渡され、庄屋はこれを持ち帰って百姓たちに読み聞かせた。



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