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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    五 安永から寛政期の一揆
      勝山の打毀し
 福井城下橘宗賢が記録した「橘宗賢伝来年中日録」中の安永三年(一七七四)四月二十四日条に次のような記事がある。廿四日ノ夜ニ入、勝山領分之百姓一党シテ勝山ノ町人泉屋茂八・番匠屋・米屋嘉兵衛・吉崎屋・高橋条右衛門・児玉俊太夫・道具屋久右衛門、右七軒ヲ家財不残潰ス、
 打毀しにあったのは勝山町の有力商人たちで、米屋は藩年貢米を扱い、児玉俊太夫は人足等の口入れ業を営んでいた。高橋条右衛門は前述した商人のことで、この時は罷免されて勝山町伊八方に借宅していた。
 直接の引き金は勝山藩の御用金賦課にあった。打毀しには同藩領岩屋村の者が真っ先に乗り込み、また、黒頭巾・黒股引と全身黒装束で顔を隠した男が万事指図をしていたという。そして、御用金は当時高橋に代わって勝手方を担当していた平泉寺玄成院が負担すること、および高橋の身柄引渡しを藩へ要求した。藩はただちに御用金中止を告げ、また勝山町方が高橋の追放を請け負ってこの一件は終わった(『平泉寺文書』)。なお、玄成院へ押し寄せる話があり、人足役が原因の一つであったという記録もある(宮澤秀和家文書)。前の藩勝手方宅を打毀すことを主目標とし、それが私腹をこやす有力商人へまで広がった騒動であった。ただし、指導者や処罰などについてはわかっていない。
 これより後の安永六年九月、幕府は徒党・逃散禁止令を改めて全国に布達した。この時同二年に起きた飛騨騒動を例に挙げ、頭取は磔・獄門・死罪とされるなど、一揆の結果がいかに無惨な結果に終わるかを具体的に示した。この布令は越前各村へも各藩から漏れなく通達され、各村ではこれに従うとする請書を提出するよう命じられた。しかし、このようなことで一揆を防止できるものではなかった。



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