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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      一揆の波及
 一揆が起こした波紋は五箇地方以外にも大きく広がった。明和五年六月、幕府領福井藩預所丹生郡鮎川浦で、百姓共と同浦「猟師そり子共」とが対立し、同二日に三人が江戸の勘定奉行所へ「駈込」訴を行った。幕府の裁許は九月五日に出たが、「そり子」の言い分を相当認めた内容であった(「家譜」)。
写真99 赤萩村一揆頭取供養碑

写真99 赤萩村一揆頭取供養碑

 同年十二月十四日には福井藩領南条郡今泉浦などで打毀しが発生した。「蓑虫」共は暮方、同浦の北五右衛門家へ押し寄せて打毀し、次いで郡上藩・小浜藩相給の南条郡上中津原村吉助・与右衛門宅をも壊した。理由は、旗本金森左京の白崎陣屋や郡上藩千福陣屋から、上中津原村や西尾藩領下中津原村等の米八〇〇俵を移出するよう、舟持ちの米屋浜野三郎右衛門と北五右衛門に依頼があり、時節柄白崎陣屋は福井藩へ相談、同藩はこれを受けて今泉浦の問屋・村役人へ積出しを命じたことによる。騒動後の二十日、福井藩は河野浦から二〇人ばかり、二十四日には赤萩村の一一人を福井へ連行し、厳しく吟味を行った。その結果、赤萩村が出頭村と断定され、廻文に関わった四人が頭取として死罪、他に六人が追放、さらに同村庄屋・長百姓三人が村追放とされた。河野浦でも一人が蟄居、二人が一三里外へ追放となった(「打こわし一件記録」西野次郎兵衛家文書 資6)。福井藩は三月の一揆とはうって変わり、厳罰で臨んだのである。
 明和八年八月八日には勝山藩領で検見取騒動が起こった。年貢の増徴を図る藩は元禄十年以来の定免制を検見制に改めるため、江戸から地方役人二人を招き、彼等の指導でこれを実現しようとしたのである。村々の庄屋たちは城下尊光寺で協議し、夜に入ると一般百姓も集まって九頭竜川原で篝火を焚き騒いだ。藩役人が出動して解散を促したが、検見撤回の藩書付が出ない限り動かないと強硬である。
 かくて藩は検見制実施の撤回を伝え、幕府役人二人は早々に江戸へ引き揚げた。百姓側は、当時藩勝手役として京都から来ていた商人高橋丈右衛門の罷免と、彼に家を提供していた打波屋伊八の追放をも要求したが、これらは認められなかった(「永代帳」勝山市教育委員会保管文書)。この件では頭取吟味もなかった。庄屋を中心とする領内惣百姓の団結を誇示する行動のみで藩の意図を打ち砕いたわけである。



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