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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      五箇の運上金
 この一揆は越前各地に広がり様々な騒ぎを起こした。前述した以外にも、丹生郡では大森・山内・滝波の三か村の百姓たちが、大森村の富農宅へ押しかける噂が立ったことが知られる(大森英世家文書)。中でも注目されるのは、福井藩領今立郡五箇地方の動きである。
 五箇地方は古くから特産和紙の生産で賑わってきた所である。この紙漉き業に従事するのは多くが五石未満しかもたない高持百姓や雑家層であったが、年貢が七割から九割と高率であり、元禄十二年から始まった運上金と相まって、その頃から困窮する者が増加した。そのため業者は判元の大滝村三田村家や仲買商の岩本村内田家などから資金を前貸ししてもらう、いわゆる問屋制前貸の下に組み込まれた。十八世紀中頃には五箇の紙漉き業全体が衰退を余儀なくされつつあった。
 さて、五箇のうち岩本村の成願寺、または同寺塔頭宝樹庵の関係者が書いたと思われる(『鯖江市史』三「史料解題」)「明和五年蓑虫騒動記」によると、福井の一揆に触発されて次のような展開があった。
 五箇近くの粟田部村の者が福井へ作食願に出たのは三月二十六日である。翌日には定友村の者が、生業の紙が販売不振であると言い立て、同じく作食願に出た。二十八日には不老・大滝・新在家・岩本の四か村からも出ていった。このときは家一軒に一人、計四〇〇人ほど参加したという。
 四月に入ると今度は粟田部・岩本村辺に一揆が押し寄せるとの噂がたった。二日に今立郡赤坂村方面から寄せて来るとか、不老村辺から岩本で潰すとかいう話である。「蓑虫騒動記」の筆者は「かれこれと云ほすハ人の気のさワ(騒)くなりけるとそ」と、一揆に沸き立っている村々の様子を感じとっている。当時岩本村の商人野辺家・内田家は共に藩の札所元締を勤めていることから、藩札不安が一揆の原因とすると、自分たちも札元だから襲われるかもしれないと不安がった。幸い何事もなく過ぎ、内田家ではお礼だとして岩本・大滝へ酒二斗、新在家・定友・不老へ一斗を袴ばきで配っている(内田吉左衛門家文書)。
 四月半ばには新たな動きが起こった。二十一日(八日ともいう)、紙運上金のことで、大滝村を除く四か村の者が一軒に一人ずつ大滝社大鳥居の下に寄り合い、翌日四か村として藩へ運上廃止の願書を提出した。これに関し藩からは五月十四日、四か村に対して、運上の件は考慮する、詳しくは藩主が江戸から帰国の上、と申渡しがあった。これには反発する者があって、十七日に若殿誕生祝いに事寄せ、村中で福井へ押しかけようとの配符が廻った。二十四日には粟田部村の二軒を二十七日に壊すという廻文があった。
 七月十一日に至ってようやく藩から正式の回答が出た。判元制を廃止し、「身運上」といって、それぞれが紙漉きで稼いだ分から六分の運上金を出すこととなったのである。外に四村へ救米を六年間、計六〇〇俵与えられることとなった。大滝村も願い出れば同じ扱いを受けることが確認された。約七〇年間続いた運上金を撤回させたことは、百姓たちには大きな喜びであった。七月二十四日には村中で祝いをしたという。もっとも、この制度は安永三年に廃止され、再び元の判元制に戻されてしまう。



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